精神と時の部屋

 私はノイデルフルの学校に入って間も無く、彼の部屋で幾何学の本を見つけた。私はこの補助教員と良い関係だったので、その本をすぐに貸してもらえた。私は熱中して取り組んだ。(中略)。外的感覚の印象なしに、純粋に観照される形態のなかに生きることができるのが、私の心魂に最高の満足を与えた。答えの得られない問いをとおして生じた気分が、幾何学によって慰められた。純粋に精神のなかで何かを把握できることが、私に内的な幸福をもたらした。私は幾何学においてはじめて幸福を知ったのである。

『シュタイナー自伝 上』西川隆範訳 p.19


 このようなシュタイナーの感性は、古代ギリシアの哲学者たちの断片などを読んでいてもたまに見受けるものでもある。

 ドイツ語で「精神」とか言う場合、日本語より範囲が広い。多く「精神」と訳されているドイツ語はGeistであるが、英語のGhostなので、精神のほか幽霊の意味もある。攻殻機動隊のサブタイトルみたいなのがghost in the shellだったと思うけど、そのghostの使い方が近いのである。

 シュタイナーは精神世界と感覚世界のふたつがこの世にあると、幼少期から感じていたという。「精神世界」はスピリチュアリズムと本屋とかでは訳される気がするが、シュタイナーが言っているのはgeistige Weltで、感覚世界=sinnliche Weltの対極。すなわち「五感で感じられる世界=感覚世界」と「五感で感じられない世界=精神世界」。

 その精神世界のほうはこういった数学で認識される世界で、まさにプラトンがイデア界についていったことにも近い。現世的な感覚で認識されるものではない。例えば、純粋な三角形なんて、この世に存在しないように。

 ドイツ語で精神と訳されているgeistはある意味では「誰の本であるか」によって「霊」と訳されるか「精神」と訳されるかが変わってしまう。シュタイナーの本の場合「霊学」と訳され、ヘーゲルの本の場合「精神現象学」と訳されてしまうように。

 日本では「霊」という言葉に対してアレルギーな人が多すぎるので、こういった「威厳・体裁のための訳」みたいになってしまうが、彼らが宗教的に崇めている賢人たちはとても哲学的な探求のための言葉としてそれを使っていたわけなのである。

 カントの著作で「視霊者の夢」という著作がある。


 

 この「視霊者」の「霊」はgeistである。スウェーデンボリについて色々カント風に考えた著作であるが、一番印象に残っているのは最後の結論である。


 わたしは本論文をかのヴォルテールがあの誠実なカンディードに、多くの無駄の学問論争のあと最後に言わせた「われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか」という言葉でもって閉じることにする。

『視霊者の夢』金森誠也訳 p.128


 自分も特に大学以降、哲学に強く興味を持って、多くの先生に習ってきたし、複数の言語を習い、論文も書いたり、大学で教えたり、自らもたくさん読んだり学んだりした。何か人生にコペルニクス的転回が欲しかったのだ。科学の諸知識とかのレベルよりもメタ的な上位な、より強いものを。

 その結果、いま、確かにちょっと、そういえば、農業もやっているなあ。哲学って、そういうものなのだね。


 多くの人が、「哲学なんか学んで、金になるの?」と言う。確かに、相当にラッキーじゃないと学問は金にはならんが、金以上のものは必ず手に入ると思う。「別に、何にもならなくていいじゃないか。」金は、どうせ現世が終わったら意味がなくなるものだし…。

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