Unendliche mantre

「これは私ではない」「私は誰か?(Who Am I)」

 私とあまりにも違う人と会話をする時は、私は私である感じはない。だから、私はいつも私と同じ人を求めている。その人とともにいる時は、私は私でいられるわけで、生きていると感じられるのは、私が私でいられる時だからだ。

 けれども、私が私でいられる時は、どんどん減っていく。生きていくための労働があるからで、それ自体は、大人になるということでしかないかもしれない。

 けれどもやはり、誰と話をするかで、全く違うものだ。私の人格の中で、人と平和的に会話をする人格があって、それを見ている人格もいる。その見ているほうの人格は、人から受けた屈辱に、笑っているだけの人格を許せないようで、私が一人で何も考えていない時は、ずっと私に文句を言ってくる。「私だったら、その時、こう反論した」と、延々と繰り返す。

 その声が止まずに、睡眠妨害になる時もあるし、人がいるところでも、その頭の中の声を聞いて、ちょっと動きが変になるかもしれない。「それ」が出てこない最高の方法は、きっと何も考えないことで、でもそれはほとんど不可能なのだから、最も最善は「それ」が出てくるような人と会う機会を減らすことだ。縁切りの神社とかの多さで言えば、古代からいかに多くの人がそれに悩まされてきたことか。

 なんかおすすめとかにこういうの出てくるね。私の曽祖父・曽祖母、にあたる人たちが、亡くなった、その時の空襲も含まれているのだろう。地名が出てくるから、この時かな、みたいな感じで出てきたりする。

 祖父祖母の代より少し先までわかっている、私の先祖には、シャーマンのような人もいたと昔聞いた。そのことは私の生き方や価値基準にも影響を与えたのかもしれない。


 先祖とは一体なんなのだろう?

 それはすなわち、生命が生命を産み、系統樹ができることには、一体どんな意味があるのだろう?ドーキンスの言う、利己的遺伝子、または、遺伝子の乗り物、の上で起きていることは、どのような因果関係を結べば良いのだろう?

 先祖の意志、みたいなのがあるとしたら、利己的遺伝子の特定の束のメッセージ性のようなものなのだろうか。

 私は私を超えたものの存在を感じる時にのみ、快楽を感じられる。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000