Centum or Satem

 なんかyoutubeおすすめとかにこういうの出てくるようになっていた。住んでいたわけじゃないけど、縁が深かったのか、そうじゃなかったのか、わからない街です。関東に十数年住んで、この駅に降りたことは、10回程度しかないと思う。けれども、何百回駅を電車で通過したかはわからないほどだ。

 一時期、ここに家を借りようとして、物件を見に行く予約も入れたことがあった。今から、4,5年前だった。ん?まだそのくらいしか経っていないのか。20代だった頃が、まるで生まれる前か何かみたいに遠い。

 多摩センターの近くの駅に週2の仕事があって、でも当時住んでいた場所からは1時間半かかっていた。だから多摩センターに住めば、5分程度で行けるので…と思ってこの街で暮らしていけたら、と思っていた。大学時代に住んでいた街にも、同じ都市圏みたいなもので、割と近かったので、場所の感覚や雰囲気がある程度わかっていた。

 ただ、このあたりの仕事にいくつか応募したが全部ダメで、知り合いの人がここに出店する的なことを言っていたので、アルバイトとかで雇ってくれるかなとか思っていたものも、ここに出店しないことになったので無くなった。それで必然的に、ここで住むという感じはなくなった。それで東京での仕事も辞めて、地元に帰ってきた。

 あの時、多摩センターにもう少し縁があったら、違う人生だったな、と思う。

 今の方がいいのかどうかは、未知数だ。例えば自分はまだ結婚できていないが、多摩センターのほうの人生だったら結婚できていたかどうか。

 それにしても、こういう人生のパラレルの分岐点みたいな、それの前後は、何かとんでもない超えられない壁があるような感覚がする。

 つまり、さっき言ったみたいに、多摩センターに住むかどうか、とか言っていた頃が、まるで前世か何かみたいに前に感じるからだ。例えば、それより前の時が、この時よりもさらに過去のはずなのに、そこまで時空間的な隔たりを感じない。人生のパラレルの瞬間みたいなものの、重みのようなものだろうか。


 言語学で、ケントゥム語とサテム語という概念がある。印欧語族で、英語やフランス語に比較的近いラテン語・ギリシア語系をケントゥム、イラン・インド系のサンスクリットやペルシア語をサテム、とそれぞれの「100」という単語の響きに象徴させて呼ばれている。印欧語族が西に行くことでその果てが現代の英語であり、東の果てがヒンディー語。言葉がどちらに向かうか、右に行った者と左に行った者で、英語とヒンディー語という違う人生を歩んだのだ。


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