liber, līber, līberī (本、自由、子供)
エコノミーという言葉は、もともとのギリシア語を考えると、親が子供に向かって「おまえは、こうしなさい」という事を意味するとも考えられる。エコノミーとは「家の法律」という意味だ。
そのような意味でのエコノミック・アニマルであることから逃れるために、早くから自立する子供たちもいる。それは家の中ではなく、家の外に本当の家族がいたということかもしれない。つまり、どれほどの大家族であっても、その人は精神的には孤児である可能性が存在する。すなわち、家というものの世俗的イメージよりも、上位に人間の相性というものが存在するのだ。
エコ、すなわち家はホロスコープでは12分の1か2にすぎず、けれども相性図はホロスコープのすべてなのだ。
ところで、紙の本を読むとどうしても心が安定する。電子書籍・電子情報が嫌いなわけではない。辞書に関して、自分は語学を教えていた時「紙の辞書なんか使ってないで、電子辞書使えばいいじゃん、手取り早いから」というくらいだ。子供の頃から、両方使ってても紙の辞書の優位を感じたことがない。
紙の本が、電子書籍・電子情報よりも情報量・正確さにおいて優位に立っているわけでもない。何かを書く時、紙の本よりもネット上の情報やPDFを参照にすることが多い。ちゃんとした研究論文は今はもっぱら電子書籍だ。電子図書館も充実しだしてきている。
情報を得るものだとしても、紙とPCではやはりエネルギーが違うというべきなのか。前述のように、紙も分子で原子なわけで、PCの光と同じくどちらも電子でできているが、電子量?もとい、同じ方向を向いている電子の数、みたいなのが違うというのが、エネルギーが違うということだろうか。存在とは量子場としての空間に刻まれた情報、ないしベクトルの消えない記録である。すべての記録は空間に記憶されている。情報もまた、量子もつれのようにつながってやってくる。自分の知らない記憶が入ってくる。
でも本当は、PCに向かってずっと座ってると疲れるけど、寝っ転がって読む紙の本の方が目が疲れないとか体勢的に楽とか、そんな理由なんでしょう。体勢の問題なら、と思って、寝っ転がって、ipadで電子書籍読んだら、紙の本なみに楽しいかな、とも思ってやってみたけど、それでも割と紙の方が気分がよかった。
さても、図書館から切り離された生活が、これ程までに、何か、人生が暗くなるとは。品揃えの良い本屋はあるが、読みたいものを買い漁っていたようでは散財する。
本といえば、ラテン語で、「本・自由・子供」の三つの言葉は、ぱっと見判別できない。それぞれ、liber, līber, līberī, なのだが、古いラテン語の書き方としてiの長母音で唯一区別できる。「自由」と「子供」は「自由」を複数形にしたら「子供」なわけなので、こちらは長母音でも区別できない。ギリシア語も、「子供(paides)」という言葉は「教育(paideia)」「遊び(paizo)」と同じ部類だ。
図書館は、本の叡智は才覚ある子供を自由の精神にしてしまうだろう。管理者や、大人にとっては厄介なのだろうか。
そんな紙の本だが、今電子書籍と比較されるように、「紙の本はだめ、言葉で伝えなさい」とする時代もあった。インドなどは国の政治レベルでその伝統を深く守った。長らく音で伝えられた言葉が、400年くらい前に紙の本に編纂された。その音で保存された期間の長さのせいだろうか、特別な何かを感じるのは。
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