アレテとレテ
アレテ(真実)とレテ(忘却)は紙一重。
うまく嘘をつく能力がある人が成功するという世の中の基本原則のせいではあるが、人間が、大人になることを訓練されるということは、社会適応として嘘をつき、嘘をつきすぎていつの間にか、自分が嘘をついていることすら忘れるところまで行くことを言う。
つまり、人は皆、俳優・女優であること、その能力を求められている。だからこそ、子供の頃から、テレビや映画で理想の大人として俳優や女優の「演技」を見せられる。
演技ができない人、嘘がつけない人は、社会不適応と呼ばれるか、障害者と呼ばれるか。「どうしてそんなこともできないの?」と言われる。
すごい普通の言葉として、自閉症やアスペなどの言葉が指す対象のなかに、そのような「嘘がつけない」社会不適応が含まれることが多い。
ただそこには正反対のものが同時に存在している。一般的で世俗的な語彙としてアスペは特定の能力に極めて秀でている代わりに他の能力が劣っていることを意味する。
そこで、秀でているものよりも劣っているものが何かが、重要になる。劣っている能力が「社会適応力」に関するものだった場合、秀でているものにかかわらず、疾患的な意味は強まる。
また、「秀でているもの」も、社会が必要としない能力だったら、まるで存在しないかのように扱われることになる。
例えば、味覚音痴の数学の天才がいたとして、味覚音痴は特に社会適応力に関係ないし、数学は社会が必要とする「仕事が存在する」能力なので、社会適応力が強い。
もっというと、「共感力」「相手の苦しみを理解する力」が劣っていて、「支配力」と「戦略・知能」そしてそれを行う「演技力」が秀でている人がいたとしよう。それはいわゆるアスペでもあるが「サイコパス」でもある。ただ、この世で力をつける人に、全員ではないが、何割かはどの業界でも上位にはそんな人がいる。
こういった社会適応力があったり、社会をむしろ支配できるサイコパス的な「アスペ」ではなく、いわば「嘘をつけないアスペ」みたいな意味で、思ったことを素直に言う子は、空気が読めないし、人を傷つけ、和を乱すし、で嫌われる傾向にあるだろう。
精神障害は、繊細な人、というイメージがあるかもしれないが、嘘がつけないという意味では、繊細さん、HSPとはむしろ相性がよくない。思ったことを素直にいうので、HSPはとても傷つけられることになる。HSPはむしろ「演技」を相手に必要とするのだ。ただ、本心を全て言ってもなお傷つかないような相性もあるので、そのくらい相性が良ければ、HSPと嘘をつけない人もうまくやっていけるし、理解者になれるだろう。嘘をつけない人の本質が、HSPの本質とぶつからなければ、良いパートナーになる。
ニーチェが言ったように、この世は「倒錯」でできている。つまり、自然な形を悪とみなし、非自然を善とする。性的なことが悪であるのは、性的行為が生命にとって不可欠な要素だから。嘘をつかないことが悪であるのは、自然な状態が心にとって不可欠な要素だから。不可欠な要素を悪とみなすことで、社会がはじまる。これを本当の倒錯と呼ぶ。よく使われる「性的倒錯」は、特にニーチェの文脈で、少しも倒錯ではない。常識こそが、倫理こそが、社会こそが、経済こそが、善と悪を逆転させた、倒錯なのだ。
哲学者の多くは、倫理を疑うことを許されず、そこから出発する。それゆえ、私はこの世で哲学者と呼べるひとたちは、ニーチェか、または似たようなことを考えた古代人くらいにしかないと思う。
0コメント