彼岸

酷い精神状態の時は、正直、最も悟りに近い。

悟りとは、この世が幻想だと気づく事が全て。

例えば、この世に愛想が尽きた、その瞬間、

現実に対して、冷める(醒める)。そこに一番近い。


私がいわば、映画に対して、映画を現実だと思い込みすぎていたことに気づく。

スクリーンの中の残酷描写に反応したり、悪党に文句を言いつづけているだけだと気づく。

映画の中の人物は、例えば私に対して、あなたの親だとか、家族だとか言うかもしれない。

映画は映画であって、映画の外にいる私に触れることなどできないのに。

なぜならすべて、私は「映画に没頭する」ために、そんな行動をしているのだ。

でもたまに、映画があまりにも過激すぎて、目が覚めてしまう。


具体的な、息苦しさもある。

病気の時は、私の届く範囲で、具体的な誰かの痛みを聞くこともある。

それでも現実の全ての出来事は、全ての他者は、私にとって映画の中の世界で、

それを見ている私は映画の中ではなく、映画を観る側にいる。

全ての誹謗中傷は、苦しい感情移入は、それを気づかせるために起こる。


そして、私は、簡単に「映画の中」に引き戻される。

そしてまた、無駄に感情移入に苦しむことになり、

映画の中の人のセリフにすぎない、誰かからの言葉を間に受けてしまう。


般若心経が、ことある度に唱えるのは、宗教儀礼でも、洗脳でも、引き寄せでもない。

ただ、「映画の中」に私が再び引き戻されれない様に、ずっと繰り返す。

「この世に実体はない」

「この世は私が見ている映画にすぎない」

「映画の登場人物は私ではない」

ずっと繰り返し、すぐ忘れてしまうから、ずっと繰り返す。

忘れないように繰り返すならば、それは仏教だけでなく、

プラトンやヨーガ行者の言葉の一部とかでも構わない。


感情移入しない事…でも、私はそもそも、退屈しのぎにこの映画を見だしたのかもしれない。

退屈しない様に、私はこの映画を「現実」だと思う様に、強く暗示した。

でも映画があまりにも恐ろしくて、退屈しのぎどころでなく、目を背けたくなる。

そんな時、目を背けるどころか「私はそこにいない」ことに気づく。

ショック療法のように、忘れていたことを思い出す。


私がもし「死にたい」と思っても、まずは映画の登場人物である体細胞が、それに反対する。

倫理がそれに反対する、親切な他者がそれに反対する。

ただ、そのいずれも、映画の登場人物でしかなくて、

映画を見ている私に干渉はできないのだし、

真我からすれば、死がそもそも映画の中にしかない概念なのだ。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000