gnoti seauton

 ゲーム音楽家の光田康典さんに人生左右されている感がある。それらが自分の人生を形成したすべてではないが、クロノクロスやシャドウハーツが、光田康典さん作曲でなかったら、ここまで心に残っただろうか? 

 クロノクロスにはパラレルワールドや量子力学のキーワードがあり、シャドウハーツにはヨーロッパ文化というキーワードがあった。「坊主憎ければ袈裟まで憎し」の逆で、「音楽が好きだからゲームの主題も好き」みたいな。音楽がよかったからゲームがよく感じられ、ゲームの持っているテーマに対して崇高さと懐かしさを含めた愛着の特別な感情がもたらされた。ジョルジュ・バタイユならそれをフェティシズムと呼ぶだろうし、ユングならヌミノースの概念と結び付けられるだろう。


 1999年に自分は小学生だった。映画館に時々連れていってもらえていたので、いくつか自分の見たい映画を見せてもらった。その中には、マトリックスとジャンヌダルクがあったと思う。マトリックスのテーマはクロノクロスに似ていた。しかし古代から続くグノーシス主義を表した映画であった。というのはもちろん当時あまり理解できていなかった。

 でも映画と違ってゲームは、テキストで読むからか、または前述の光田康典さんの音楽のせいか、割と小学生の頭にも響いて、「存在」の絶対性を疑うようになった。そのグノーシス的な疑問にそれから人生ずっととらわれることになった。例えば「世界に記憶が作れる存在がいたら、世界はついさっきできたばっかりかもしれない。」とか「今見ているものは、すべて幻かもしれない」。

 矢井田瞳さんのbuzzstyleという曲も、このくらいかちょっと後くらいの時期に流れていた気がする。

 単純に音楽としても好きで、しょっちゅう聞いていたけど、歌詞が好きだった。最も心に残ったのは、「もしかしたら、私以外、居ないのかもしれない」という歌詞。

 グノーシス主義のグノーシスとは「汝自身を知れ(グノーティ・セ・アウトン)」の「知れ(グノーティ)」の部分である。そしてその内容は、プラトンの洞窟の比喩で「この世界はただの映像であって他人という存在は自分の思い込みかも知れない」という考えでもある。

 現代の量子力学の最先端でも「時間は存在しない、ただ関係性を時間だと脳が錯覚しているだけである」と、同じようなことを言って居たりする。


 光田康典さんの音楽で自分に重要な役割を果たしたのは、クロノクロスだけでなく、シャドウハーツも凄く大きかった。なぜならヨーロッパ文化への興味はここに発端がある気がするからだ。ジルオールというゲームも大きかったが、シャドウハーツ2でパリ・モンマルトルのテーマが、こうなんか凄いノスタルジアみたいなのを含んで居て、現実の街にも関心を持った。

 中世ヨーロッパという時空間にはもともと凄く興味があった。中世ヨーロッパが舞台のゲームにはまり、ロードオブザリングが好きで、中世ヨーロッパの歴史モノも好きだった。

 なかでも、ジャンヌダルクという人物に愛着があった。リュックベッソンのジャンヌダルクを、小学校の頃に観たいと親に言って映画館につれていったもらったことがある。

 当時はまだヨーロッパの歴史も何もそう知らない。ただ中世ヨーロッパ風の美術に惹かれて居たにすぎなかっただろう。しかし今思えば、ジャンヌダルクは昔から今まで興味を持ち続けている対象のひとりだ。

 実際のところ、歴史上の人物で、半ば伝説的な人なんて、本当にいたのかどうかすらわからない。もしこれらの人物たちが本当に存在していたとして、魔女裁判やジルドレの悪評、そういったものは、事実ではなく政敵が自分を正当化するための政治的な都合の歴史だろうな、という感覚は歴史学を学ぶとそういう発想になっていく。また人物は映画や文学になるごとに、当然人物像は変わっていく。当時から英雄を演出された女優だったのだろうか?本当に処刑されたのだろうか?実際のところは、どんな人生を歩んだのだろうか。ドンレミー村のストリートビューを、何度も巡っていた。

 シャドウハーツ2も、ドンレミー村から始まっていた気がする。なんならドンレミー村のジャンヌという少女のくだりからはじまっていたような。ドラマ性のある有名な歴史上の人物なので当然だが、何かそういうキーワードが色々なとこに残る。

 実際のところは影を追いかけているだけかもしれない。ただ影と実像のどちらを実在と言うのかは謎で、そもそも影と実像は時と場合により、量子のスピンがそれぞれ逆向きになるみたいに、ある時突然いれかわってしまう時すらあるような気がする。

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