教育のプレゼンティーズム
古い地域、古い世代では、やはり「英才教育」というものの意味が、全く本来の姿と違う。国公立の「進学校」のやり方は、おそらく英才教育から最も遠いものだ、とアメリカの教育、東京の有名私大付属小学校、インターナショナルスクール、などの「英才教育」についての話を聞くと思う。
暗記の勉強を子供たちによくたくさんの時間させ、教員は機械的に教科書を読み上げる、それは「普通の教育」であり、悪い教育だ。それに対して、「英才教育」は教科書または議論の題目を子供または子供達に読んでもらったり鑑賞してもらって、その上でその題目について自由に創造的に意見をつくり議論して、プレゼンをしてもらったりして、意見交換をする。
古い地域では「英才教育」という言葉の意味が、この子供の暗記・教科書朗読時間を増やす教育だと思われがちだが、それはむしろ「普通の教育」の二乗みたいな底辺の教育だ。
理想的な英才教育の素晴らしいところは、関係する者全員がwinwinになれることだ。今の義務教育、普通の教育は、学生にとっても、教員にとっても、国にとっても辛い。学生は、本来持っている才能を伸ばせず、また勉強を一生懸命頑張っても、というか機械的作業をしなければ伸びない勉強の努力を強制され、それは大学入るまでしか価値がなく、卒業後はまた別のことを一生懸命勉強しなければならない。卒業後まで、とにかく意味のないことをさせられる。教員もまた、意味のないことを教え、自分の個性を発揮できず、国から与えられた教科書を音読する係という、機械ができることをわざわざ人間を使って行なっている。国もまた、若い才能を潰し、自殺率を上げ、未来への希望をなくすことで働き手を失い、自分の寿命を縮めている。
教育がwinwinになれれば、全てがうまくいくのだけれど、閉じたコミュニティの宗教が、あまりにも強大だ。塾産業と、教員の機械作業のために維持しなければいけないカリキュラム、監視し合う管理職の蜘蛛の巣のでせいで、動きたくても動けない教育改革。
閉じたコミュニティの宗教によって、国は新陳代謝ができない動物だから、周辺環境の変化に適応できないようだ。ひとつひとつの細胞が、体をつくるように、いわば国の細胞のなかで、視覚や聴覚などの総司令あたるものは、周辺環境の変化に気づけない。その情報が届くのがあまりにも遅く、行動するのも遅い。そのため、新陳代謝が全くなされない。その結果、環境の変化に適応できず、内部崩壊していく。司令塔を除く、多くの細胞は、環境の変化に気づいている。しかし、司令塔はそのような細胞を好まないため、聞く耳をもたない。
新陳代謝を起こし、教育が変われば、国はまた豊かになれるだろう。新陳代謝が起きていないので、このままでは、環境によって国は淘汰されるか、重い病気にかかって伏せるか…。だが、環境変化を察知した細胞がどれだけ主張しても、別の保守的な細胞に阻まれ、司令塔に言葉が届かない。
子供達は、そのような現状を知らず、ネットやyoutubeとかフリースクールみたいなところとかで、楽しい上に将来に役に立つ「本当の勉強」の存在を知っていても、それを知らないか、行う権限がないほどに監視された大人たちによって楽しくない上に将来役に立たない「偽物の勉強」を押し付けられ、素直でまじめな子は特に、それが真実だと思い込んでしまう。
だから今の中途半端な時代においては、学校に行かないで、フリースクールとか、何か「英才教育」がわかっている人たちのもとで学ぶようなことが、最も効果的であり、最も将来に役立ち、最も賢くなれる。
よくよく考えれば、歴史上で、王族、偉大な学者、そういった人たちは「普通の学校」に行かないで、「選りすぐりの家庭教師」のもとで学んだ。そしてその家庭教師たちは誰一人としてはいまの「普通の学校」の科目カリキュラムみたいなものなど教えないだろう。
勉強が、思考し創作する素材になれば、子供達は自然と覚え、理解することができるから、最も効率がいいのだ。テレビゲームのルールや情報は理解できるのに、勉強で同じことができないのはゲームの世界では創作ができているのに、勉強のほうでは創作することができていないからだ。
ただ、「普通」からしたらその「英才教育」はある種の道を外れた外道ということになるので、子供達はそれを英才教育と認識できないかもしれない。
将来になってみると、その素晴らしさが、わかると思う。「英才教育」を経験したのに「普通教育」に憧れるようなことさえなければ。つまり、私は「普通教育」を受けず、「英才教育」を受けたから、色々ダメなんだ、なんて思わないように。「英才教育」は思考の自由を得られるのだから。
ただそれまでは、「普通教育」にとって侮蔑の対象であり外道である「英才教育」が正しいのだと、信じさせて、教えてあげられる身近な信頼できる誰かの存在が必要だ。
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