反射体
浄土真宗はとてもメジャーな仏教なので、それに隠れがちだが、仏教のなかで最も特異なのは、親鸞だと思う。
古来より宗教は、「これをやるといいよ」を皆でつくりあっていくシステムだった。でも親鸞のキーワードは「他力本願」、すなわち儀式を必要としない、「これをやるといいよ」がない。その意味で、一番仏教的だとも思う。
だからこそ、浄土真宗と親鸞の思想は、全く別物だと思う。多くの仏教は、悟りのために、修行をするといいよ、念仏を唱えるといいよ、だが、親鸞にはそんなものすら必要ない。けれど、浄土真宗には儀式がある。ブッダの言ったことと仏教のやってることが違うように、またキリストの言ったこととキリスト教のやっていることが違うように、こういったのとも似ている。
例えば、もし雨乞いをしたら、それは究極的には他力本願とは言えない。自分の力ではなく天の力で雨が降った、または祈りと雨に因果があるのか?そんなレベルの話ではない。ただ、願いの舞により雨が降ったのなら、私には願いの舞という儀式的な行動があった。それがなかったらいいかもしれない。なんとなくぼーっとしてるだけで、何の儀式もしなくても雨が降った、それが他力本願だろうか。
いまは、他力本願の逆の世界だ。すなわち「なにかをやらないとやばい」世界。儀式を常に求めている。本当に「なにかをやらないとやばい」のか?そんな保証なんてないのだけれど。
科学の知識なども、どこか儀式的に見てしまうところがある。緻密な構造とエネルギーの研究によって電気が周り、機能化された農業でつくられた豊富な食物を食べ、数学と構造と物質に関する叡智でつくられた家に住み、例えば花粉症になれば抗ヒスタミンの成分のある薬を飲み…科学の知識を否定したら、これら全てを否定することになって、何も残らない、自分の人体さえも。でも、それを否定とか肯定とか以前の何か視点みたいなもので見たい欲求のようなものがある。
子供の頃は、そうやってものを見ていたのだ。ただ、そこには「まだわからないこと」の存在はあったから、未知があるという言い知れない恐怖と自身の未熟さ、を感じていたのだろう。
「まだわからないこと」を知ることは子供でもできるが、「まだわからないこと」を知った上で、疑うのは、子供にはできないことだ。または、それをできるようになったら、年齢に関係なく子供でないと言えるかもしれない。
願うという現象は、生理学的にはあまり意味がない。願った上で、行動をすることで、環境に対する働きかけを行い、自己の生命維持活動、有益無益・報酬系がでるかどうかなどの結果を得る。「願ったら、それが起きる」または「神様に任せたら、最善が起きる」は、科学的には意味がないが、それは視点のひとつだ。いわば日本語以外に英語が話せるようなる感じで、母国語である現代科学以外にも、第二外国語たる第二科学みたいなものを得ると、人はより成長する。
まあでも「願ったら、それが起きる」可能性は、母国語としての現代科学でももちろん考えられる。世界シミュレーション仮説は、別に現代科学の命題のひとつなのだろう。世界の最小単位を情報と考えたり、人間が世界を模倣してシミュレーション世界を作れるように、世界はシミュレーションなのだから、データである以上、特定の場所にデータの偏りを、いわば全体のサーバーの容量などを無視して、設定したり、組み込んだりできるだろう。いわば、「願ったら、それが起きる」人を、データ的に作成することもできるはずだ。世界がデータであるならば。
「願ったら、それが起きる」にも、いろいろあると思う。例えば、統合失調症で、明晰夢みたいに現実に幻覚を自由においたりできる人がいたら、それはもうある部分では「願ったら、それが起きる」なのだ。
または、この親鸞や仏教的主題みたいに「執着がない人」、善悪がないので、何が起きても構わない人もまた、それに近くて、何が起きても構わないということは、「願ってなくても、それが起きる」と同時に「願ったら、それが起きる」を成立させている。
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