curriculum circulorum

 一体今、どれだけの人が学校の勉強を支持しているのだろう?生命という現象が、果たして稀有なものなのか、そうでもないのか、わかりもしないが、まさに「私の時間を返せ」と言いたくなるような、それを盲信し、支持している人たち。受験という宗教のなかで、学校には常に「タスクをこなす」という空気が流れている。国からありがたいカリキュラムを与えられて、そのタスクをこなす仕事。それは現状維持の方法なので「新しい学問を発展させ、豊かにしていこう」という気概はない。

 例えば、人は、世界は、「学問の発展」を望んでいるだろうか?もしそうだとしたら、そんな気概がある人は、普通の学校に行くべきではない。本屋に行って、図書館に行って、ネットの面白い記事を見て、情報の選別を学んで、新しいことを、世界の新しい発見を知っている人に、話をききにいくべきだ。学校の先生が教えてくれるのは、もう時代についていけなくなって久しい、子供の能力に不釣り合いな、国から与えられたありがたいカリキュラムだ。面白いことを知っている先生もいるけど、国から与えられたありがたいカリキュラムに潰されていることも多い。

 それは、日本の宗教に反することだから、宗教に反することは経済に反することだから、どこかで「隣の芝は青い」になるかもしれない。遊んでいないで、勉強していたら、今時まともな職について、まともな人生を…。まあ、基本的にはきりがない。そういう人生を送ったならば、また別の後悔をして、いまの人生を羨むかもしれない。

 私たちは、狂ったものを見せられているのだろうか?

 標準が狂っているので、その標準の外に居ることができたら、その上で暮らしていけることがもしできたら、それは今の時代ではおそらく幸せなことだと言えるかもしれない。

 飯を食い、家がある、その上で、他から侵略されず、同じ思想を持った、共同体を維持できる。そんなことができれば、それ以上のことはない。

 歴史学というものは未来を知ることもできないのに悲観的で、人々の過去への憧れ、そして過去にそういったユートピア思想で村をつくって失敗した歴史が覚えなければいけない事項として教科書に載っている。「これをするな」という意味で載せているのかもしれない。

 または、人間の命が有限であるように、ユートピアの命も有限なのかもしれない。けれども、どんな人生であっても、その一部でも見つけられたらいい。

 人間が、筋肉を動かすことにも、目や頭で追いきれないほどのメカニズムが働いているが、日常のアタリマエとしてそれを行う。筋肉が動くのがアタリマエのように、働かなくても食えるのがアタリマエになれば、人はまた、筋肉のない生物から筋肉を操る生物へと進化したように、次の段階へ進化できるのかもしれないが…。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

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