evaṃ mayā śrūtam
おすすめに出て来てた動画。タイトルもなんか凄いし教祖っぽい人って思ったけど、それは全然悪口ではありません、とても面白いことを言っていました。この世の仮想現実は、多世界解釈的にパラレルワールドの3次元で、それを俯瞰できる5次元の視点もあって、死後はその視点になるということでしょう。法華経、量子力学などはそれを示しているということです。
動画内に置いてある本に、法華経、あと量子力学の本があります。ここででてきている量子力学の本:量子力学が語る世界像ですが、今日立ち読みしてきましたが、30年近く前の本なのもあり、なんとなく核心部分は個人的には知っているかな、ということが中心だったので、買いまではしませんでした。
ただ、法華経は、読んだことがなかったので…。まあこういう古典はだいたいネットで閲覧できます。要約法華経目次。なんというか、こういった視点で読むと、面白い気がします。こういった視点でなければ、あまり読む気にもならなかったかもしれません。
他の要約サイトとかも閲覧しましたが、この法華経は、読めば悟り、この世の真実を知る論理だと法華経内で語られているわけですが、それについて具体的に語られているわけではありません。しいていえば、化城喩品第七で十二因縁が語られているところでしょうか。これはまさに、空の思想で、微小なふたつの0と1のようなものからはじまり、意思と感覚を通して他者を認識し、それが人間となり、自分の生と老・死へと連鎖していく、そんな過程が語られています。すなわち、すべては0と1のビットから始まったようなものです。今のAI技術のようです。
すなわち、仏教でも普通に空の思想は大いなる到達点ですが、法華経も同じということですね。この世の仮想現実があって、全ては概念や性質であり実態がない。ただ、その実態がない世界ではそのひとつの対象しか集中して認識できないようになっているがために、実態性がうまれ、意思や人生や生命や死が発生する。とはいえ、死後は全て実態がなかったのだと見えるようになると。
法事とかの面倒くさい行事で、何を言っているかわからないお経の形で法華経を聞かされたことがあるかもしれません。その時は、なんの哲学的発見もなく、ただ早く終わらないかな、という気持ちしかありませんでした。
ただこうやって、原点や、特にサンスクリットを自分は大学時代に学んで置いたそのおかげさまで(占星術師の人の勧めでもありました)、そういった思想と量子力学の世界とかの話とも組み合わさって、ようやくいわばこういった「空の思想」が理解できたと言えます。今は、こういったブッダの境地のようなものへの理解においては、そうやって意味を失ってしまったお経の音楽よりも、量子力学の世界観ほうが確かにわかりやすい入り口なのかもしれません。
これは悟りなのでしょうか?よくわかりません。相変わらず、感情は起伏だらけで、でもたまに最悪の自体みたいな感情を乱される出来事に対して、最近はむしろ謎の期待感、ワクワク感がでてくることがあります。ちょっと意味がわからない。
でも、自分の周囲の全てを善にするには、悪を排除するのではなく、悪を善と認識すれば終わると言えばそうです。それが可能ならば。ただ、そんな風にはいきません。
最近は、いわば、次元上昇みたいな感覚と言っていいのか全くわかりませんが…一部の人と本当に話が合いません。一部といっても、家族だけですが、他の人も深く話をしすぎた場合、もちろんそうなるかもしれません。全ての作法が違う世界なのです。複雑な概念をまだ理解できない子供とお話しをしなければいけない感覚です。そしてその子供の世界を強制され、私がそれに従わないと腹を立てるのが苦手です。自分が子供だったら、子供の遊びに適応できるかもしれないけど、今はもう…。
私は、なんらかの人生に関すること、特に「人は死後どうなるのか?」を知りたくて、哲学やこの命題の関連事項をやたらと学んだりしていました。15歳くらいからなんとなく興味がわいて、そこから18年近く、今は割と死後の世界について「こうだろう」というのがあります。
「死が何かわからなければ、安心して生きられない」と思っていて、とりあえず死について理解しました。ここでようやく「生きる」について知らなければなりません。
カントの著作『視霊者の夢』の末尾には、「難しい議論はやめて、我々は我々の仕事をしよう、畑を耕す続きをしようではないか」というヴォルテールの引用がありました。「難しい議論をやめる」ことができたのは、自分の場合、それに関する答えがなんとなく出たからです。そこでようやく「畑を耕す続きをしよう」と、18年もたってはじめて思えたのかもしれません。ただ、仕事も選り好みしたいですが。
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