information is dead
情報が暴走し、情報が人を狩っている。
とはいえ、自分は物体の最小単位もまた、情報だと思っている。
ゲノム編集は、生命の中のデジタルの部分を明らかにした。人間という情報の一部を改造する技術もできた。しかし、万能であるとは誰も言えない。先天的な生命現象に対する後天的な私たちの技術は、いまだスーパーコンピューターに対して白黒の初期型PCとかで挑んでいるかのような幼稚で盲目な部分はあるだろう。
情報の集合体である私たち生命は、遥か昔からずっと言われているように、私たちは情報を見ているのであって、現実を見ているのではない、ということをより知ることになる。私たちは、現実という名の情報を見せられている。
情報を現実にするには、情報に対して統計的再現性が付与されれば良い。
情報に対して統計的再現性を認識できれば、人はそれを現実や真実だとみなすだろう。あくまでも、情報を現実とみなすその認識は伝聞であっても良い。「統計的再現性がありますよ」と誰かがいうだけでも、一時的には現実でないものも現実になってしまうのが、情報なのだ。
私たちは、そういった時代を生きている。
実のところ、今のこの時代を抜け出すには同じ思想のひとたちと共同体をつくって、ある程度外部依存性の少ない「生きていけるシステム」をつくるか、またはそういう場所がすでにあれば、そこに入れてもらうしかない。
情報と統計的再現性の認識に、同じヒト同士でかなりの差が生じてきている。
それはヒトが「意識」を何とみなすかにもよる。すなわち、私たちが経験している一瞬一瞬の感情や行動を「意識」と呼ぶのか、それとも社会という仮想空間の中で名前を持ち社会的活動をする社会から見た存在を「意識」と呼ぶのか。
ただ、意識の定義のなかに社会が含まれる場合、社会のほうのディスオーダーをその意識の個体は全て受けなければならない。
私たちは、歴史の中で戦争を習う時、その民衆の狂乱を「愚かだなあ」と片付けるだろう。同じことが、私たちの時代にも言えて、おそらく今は、後世が「愚かだなあ」と片付けるもののなかにいるのだろう。そういった一瞬一瞬の歴史的出来事と、もう接点を持ちたくない。
今起きていることについて、ハンナ・アーレントが引用されているのを見たことがある。
ハンナ・アーレントは第二次世界大戦後へ向かう時代とその時代へと向かう民衆の狂乱や無思考について書いていた著書がいくらかある。ちゃんと読んだことがないので、しっかりと読みたいと思った次第だ。
私たちの今の時代は、ハンナ・アーレントが過去の時代の過ちについて書いた、それと同じ時代を経験しているのだろう。
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