Recipio ergo sum
現実とは何か?
私と言う認識を行う主体が存在する。
そこで、私が認識した特定量の情報の統計的分析によって構成される仮想空間のことである。
その仮想空間において、私は過去の統計から未来を予測する。
予測された未来と同じもの、または違うものとして現実がやってくる。
そしてそのデータもまた、現実を構成する統計的分析にかけられ、現実はバージョンアップする。
私が認識・観測できない部分で作り出される「現実」があるとしたら、
「現実」の定義と反するため、それはカントが言うところの物自体にすぎない。
例えば、私が視覚的に見ていない「空間」は存在しないと言うこともできる。
それは私が統計的に分析した「未来予測」と同じくらいの存在確率である。
現実は、認識とその統計的分析で成立している。
「私」とは認識という行為を行い、そのデータを受け入れる「受容体」である。
そのため、「私」は常に外部のデータの塊である。
他者から影響を受けるということが「私」を成立させる。
ただし、ただの受容体ではなく前述のように統計的分析を行える受容体である。
その認識できる外部データには「感情」も含まれる。
私は外部データという環境要因をある程度選ぶことができる。
そのため、私は影響を受ける「感情」もある程度選ぶことができる。
ここで、人間にとって「幸せ」とは何か?
私と言う受容体のデータを基本的に「ポジティブな感情」のみで満たすことだ。
ポジティブなデータしかないので、統計的にもポジティブな未来しか分析できない。
そのとき、ひとびとがいうところの「現実」(ある意味それは物自体なのだが)で
何か起きていても、解釈にポジティブしかないために、「不幸」が起きない。
ポジティブなことだけを言う人と過ごすことができれば、
受容体である私も同じデータを共有し、
どのような地獄も「幸福」になれるだろう。
ネガティブなことだけを言う人と過ごすことができれば、
受容体である私も同じデータを共有し、
どのような天国も「不幸」になれるだろう。
それはすなわち、どんな悪いものにも魅力を見出せる人だと言えるだろう。
愛によって、攻撃や嘲笑すらも幸福になってしまうくらいなのだから。
問題は、天任せ以外に、
そんな人と出会い、暮らしていく方法がわからないことだ(汗)。
自分が、そういう人になればいい、というのはそりゃそうだが、
今のところ全然うまくいかんので、そんな感じになる。
まあ、生物学的要素を、ある程度自由にできる可能性が、
生物それ自体にもあるのかもしれないが。
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