サルコ&ループ

 スイスという国家が安楽死先進国で、自分もそれいいなと思っていつかスイスにお世話になる日がもしあるならというべきかドイツ語を勉強しはじめました。(フランス語もある程度やりましたが)

 なぜドイツ語をはじめたのですか?とたまに聞かれますが、普通の人には哲学が好きでとか適当に言うこともありますが、大丈夫そうな相手には本当のことを打ち明けて、そのように安楽死制度がいいなと思って、あとラムシュタインが好きで、というくらいに白状します。

 加えて、オランダでは、自分の死体を菌糸体の力でゆっくりと自然に還元するそれこそ「森に還る」埋葬棺の事業をしているLOOPという企業(?)があります。

 このふたつが、とても良い組み合わせなのです。実は自分は、火葬とか土葬とかいやなんですよね。死亡確認…されたにも関わらず棺内で突然生きかえっちゃったりしたら嫌だというくらいではあるんですが。前は、東南アジアの崖に棺が竹簡みたいに並べられている埋葬いいなというくらいでしたが、この菌活埋葬はもっと理想的です。特に、地球環境の循環や共生に自分の体を寄与したいとかそういうことではないですが。なんとなく「死後生き返るリスク(?)」と、森に還るというコンセプトが良いというくらいです。

 サルコからのループの流れがいいですね。別に自ら気づく間も無く自然に突然死とかできるならサルコいらないですが。


 安楽死という言葉は、英語でユータナジーと言いますが、ギリシア語でエウタナシア:euthanasia, eu(良い)+thanatos(死)すなわち「良い死に方」です。辞書で調べてみると、意外とエウタナシアの使用例がありません。このレキシコンはある程度までは用例がでるのですが、SuetoniusのDivus AugustusとCiceroのLetter to Atticus(Epistulae ad Atticum)しか出ていません。いずれもローマ文学で、ラテン語文献です。ただ、引用句みたいに使われていますね。スエトニウスのほうは、ローマ皇帝アウグストゥスがいつも「エウタナシア」を望んでいてその言葉を口にしていたという記述のことでしょう。

 ちゃんと調べれば、このLSJの辞書の引用だけでなくもっと出てくるかもしれません。語彙としては、ギリシア語において比較的作りやすい言葉だからです。ダイモーン(運命の導き手、守護霊)にエウ(良い)がつくことでエウダイモーン(良い導き手=幸福)の意味になるように、いろんな言葉にエウをつけるのは比較的ギリシア語の考え方として、難しい話ではありません。

 もちろん「善い死に方」は「善い生き方」にもつながります。ギリシアのポリスの軍隊における「エウタナシア」は祖国を守って死ぬ名誉のことにもなるかもしれませんし、ソクラテスなどで「善い生き方」はしょっちゅう聞く概念です。


 エウタナシアは、アウグストゥスでなくとも、生命にとっての夢です。死というタブーを含む言葉の響きだけで、毛嫌いする人もいます。もちろん、何らかの発見によって人が死を克服する時代がやってくることを、否定するわけでもありません。

 生物学における、ドーキンスの考え方からの派生やそのベースように、生物は理由なき突然変異を繰り返し、そのなかで数えきれない突然変異を繰り返し、最も基礎的な突然変異の工程は省いた上で、たまたま現在「生殖細胞と、それを守護する細胞」の組み合わせとしての現在の人間があるとします。

 そしてその中で「それを守護する細胞」である脳や腸といった「私」側が理性や思考力を持って「生殖細胞と、それを守護する細胞」それ自身を客観的に眺めている、というモデルもまた、あるとします。

 そこでは、生物において本来存在しなくてもいい「生と死」が発生したのは、偶然なのかもしれません。痛覚を用いて死を禁忌するというのは、何らかの自我を超えて人間をプログラムした意思のような存在による生存戦略なのか、それとも突然変異が偶然ランダムに起きて、そういった死を禁忌する突然変異が環境に適応できて繁殖したと言うべきなのか。

 人間という生命が、生まれ、死んでいく、というモデルは基本的に客観的に確認できますが、その上でなぜ「私」という個別が存在しているのかは、謎です。ただ、人が生まれ、死んでいくという客観的に観察可能かつ自分にも当てはまる経験論の上で、もちろんその経験論の通りいかなくて「本当は死なないんです」でも構わないのですが、経験論的には、よくわからないタブーを超えてエウタナシアを求めるのは当然の思考なのです。

 仮にタブーがどれほどうるさく主張しても、日本では統計的に、そして統計の数を超えて自殺者がいるかもしれないわけです。基本的には、肉体から解放されること自体は非常に強い快楽だとは言いますが、その死に方によっては痛い死に方をするわけで、自殺者のためを思うならば、どうせ死ぬならより安楽死の可能性が高い方が良い気もしますが。

 多くの人は「自殺を止める」ことが正義であって、人によっては「私の方が苦労している」とか勝手なこと言えば止められるなんて思っている人もいるかもしれません。

 それさえできれば自殺したい側の個人の状況は関係ないというか、正義側の主観でものごとが決まって、個人の非教科書的な感情への取り組みというよりも統計的にその数的な効果が見えればよいとか、その後や生活が楽になるためとかっていうより議題として取り扱っている感を感じることもあるんですよね。すぐに結論がでる話ではもちろんありません。

 いずれにしても、生命循環レベルの視点で新しい時代がやってきたら嬉しいところです。

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