あの頃って?

 だいたいいつもそうかもしれませんが、めっちゃお腹痛いです。そんな体質ももう20年以上の付き合いです。でも胃が痛いより腸が下しているほうが痛み的にはましです。

 もう何年も前のネットのコピペでいうところの「10年後にはきっと、せめて10年でいいからもどってやり直したいと思っているのだろう。 今やり直せよ。未来を。10年後か、20年後か、50年後からもどってきたんだよ今。」ですが、大学生の頃からとか、毎日これを思っていました。でもそう思ったところで、何もできることはありません。どれだけ時間を大事にしようと意識したとしても、勝手に時間が流れていくもんです。たぶん、ものすごいパラドックスです。


 若い頃は、年上の人から「若いっていいね、後悔がないように生きなさい」みたいに言われますが、たぶん人生に関する最善解を選んでも、それでも人は必ず後悔するのかな、隣の芝がいつも青いということから、逃れられないのかなって思います。人間にパラレルワールドを考える力がある限り。つまり、考えることがストップしたらそれはなくなりますが。

 人生の価値はなんなのか、わかったもんじゃありません。性欲、生理的欲求、そりゃそれが満たされた時は、一番幸せです。でも人間にはナゼか向上心みたいなのが一緒にプログラミングされちゃってます。

 向上心は人間において成長欲求にもなりますが、同時に時間軸の認識を持つと、過去へ後悔をする力にもなっていきます。「こうなりたい」が「あの時こうしていれば」に年齢とともに変わっていきます。でも、あのときやらなかったことにも、理由があります。ただ、その理由を忘れるので、「あの時こうしていれば」の威力が強くなるのです。あのころの疲れとか体力とか学習能力とかは、真っ先に忘れてしまうからです。

 その意味ではもはや若い頃の自分は存在していません。映像媒体や写真媒体などにはあるかもしれませんが、自分のなかであの頃の感覚がなくなって、あまつさえあの頃はよかったとかあの頃に戻れたらなんて思っている以上は、もう私の中にあの頃の私の細胞はほとんど消えていて、もうあの頃の私とは他人です。


 優先的に、トラウマ的記憶だけは幼少期からずっと消えることなく累積されます。なので、思い出せることは衝撃的体験ばかりです。子供の頃、毎日どんな生活をしていたか?全然思い出せませんし、友達とどういうノリで接していたか、もう感覚もありません。

 ただ、ケガをしたとか、交通事故にあったとか、水難事故にあったとか、学校でトイレいきたくなったとか、同調圧力のせいで間に合わなかったとか、そういう記憶だけずっと残っています。同じように、人に言われた傷つく言葉、嫌な言葉、そういうものも子供の頃から、ずっと累積されています。

 代わりに、嬉しかったことは、結構忘れています。なんせ、今同じことがあっても、たぶん嬉しくないからです。


 あの頃は、「誰かのいうことは正しい」という宗教が自分にはありました。それは、定型発達という名の宗教なのかもしれません。今も、近所づきあいのためにテレビの情報を盲信する老人とかは、同じものです。でも本質的には定型発達でなかった自分にとってはその宗教はあまりにも苦痛すぎて、どれほど協調性が大事だとしても、今の自分には、その宗教はなくなってしまいました。それと同時に、そこにいる理由もなくなりました。

 それまでのポジティブな記憶は、後出の宗教によってネガティブに変えることは容易でしょうし、その逆もまた然りです。そしてまた、自分の宗教信条は年齢とともに変わっていくものです。

 20歳から30歳になっても、いうほど根本は変わりません。知識だけが変わりました。ただ、知識や経験なんて自分の本質とはちっとも関わりがないものにも思えます。不変な自分の本質の周りを、ただ惑星軌道や原子における電子配列のように周回しているだけの浮遊物が知識という感じがします。


 10年前の自分に今の私である「10年後の自分」であるこの私の状況を教えるのはいくらなんでもかわいそうすぎるようにすら感じます。

 私の記憶細胞は今や、きっかけがないと思い出せないことばかりです。というのも、この記憶細胞が「トラウマ的記憶」だけ優先的にロックかけて保存しているのです。だから自分の容量データ内はそればかりです。それはもうキャッシュというよりシステムデータに近いのでは。

 HDDにトラウマデータがどんどん累積して容量を圧迫してくるから、現実が常に幸せばかりでない限り幸せホルモンの供給が間に合いません。

 だから逆に、このトラウマデータを何かに活かせないか?とすら思います。生物の進化が偶発的な突然変異の累積だとしたら、常に生物はそのトラウマデータを発想の転換で他の生物にできないことをすることで行かそうとしてきました。キリンの長い首、シカの立派な角、生物の多様性はそのようにして生まれたとも言われていますが。


 このトラウマデータの機能のひとつは私においては過敏性胃腸症候群とPTSDです。トラウマデータの本来の機能は自然の摂理をサバイバルするための自己防衛機能かもしれませんが、サバイバルする環境そのものが変わりすぎています。現代社会は自然の摂理とは大きくかけ離れていて、トラウマデータはむしろ自己攻撃機能に近くなっています。


 理性の世界の結論だけでは満足できず、占星術の世界の結論を求めました。10年くらい前にはあまりなかったことです。10年前に戻って、より自分らしい仕事があったか?と考えても、自分のこのトラウマデータ収集力みたいなものを搭載したスペックの体が、1日の労働の疲労に耐えられる業種は、自由業か時給がとてもいい仕事を小時間働く仕事以外思いつきません。

 占星術で、ずっと私の蠍座冥王星の10室と格闘してきました。この配置の新しい答え・解釈をずっと探しているかもしれません。かつて、例えば新宿の大きな本屋に行って、自分のホロスコープの特徴を、片っぱしから占いの本を立ち読みして毎日調べていました。何百人ものたくさんの人の占星術のデータをみてきました。それでもまだ、足りません。

 常識的な仕事をするたびに「私はこの世に存在していない」ような、そんな感覚しかしません。冥王星と蠍座の実存主義哲学に反しているからです。

 一緒にいても傷つかない人を求めているし、やっても疲れない仕事を求めています。



ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000