天職の次に必要な天職
仕事には、「好き」「得意」「需要」の三つがある程度必要だと考えています。もちろん、仕事にとっては他の何より大事なのは「環境=人間関係」だと思いますが、その前段階としての仕事選びの話ではあります。
個人的にはここで「好き」と「得意」を分けていますが、実はこれは、この世のほとんどの人がそうであるところの定型発達が強いひとにとってはその区別は必要ないと思います。
もちろん、定型発達と非定型発達の違いは、具体的な境界線があるわけでなく、定型発達度が強い、非定型発達度が強い、とグラデーションでしかありません。また、ちなみにここでは非定型発達のイメージを主にアスペルガー的な部分を想像しています。
その上で、
定型発達の傾向の場合:「好き=得意」「需要」
非定型発達の傾向の場合:「好き」「得意」「需要」
が、重要になってきます。
定型発達が強い場合は、「好き」であればすなわち「得意」だと思います。この世の「勉強法」「学習過程」「将来設計」「仕事選び」などは、そもそも定型発達基準です。そしてその原理は、「学べば、身につく」という前提がもとになっています。
非定型発達の場合、その部分が厄介です。定型発達の常識が非定型発達の非常識なので、そこが原因となるのはもちろんです。ですがそれにくわえて、アスペルガーには非常に強いこだわり、特別な興味や才能の偏りがあります。アスペルガーという診断でなくとも、非定型発達の他の精神的状態に影響を与えているのはこの特性であることは多いでしょう。
そしてまた、非定型発達これが非定型発達において「好き」と「得意」が分離される理由でもあり、そこから「需要」においても特殊な状況を発生させます。
その偏りによって、知識へのこだわりが発生し、どうしても吸収できない知識みたいなのが発生します。なので、必ずしも「学べば、身につく」という状況が適応されないのです。いくら学んでも身につかないことが発生するのはひとつの大きな特徴です。
ですが、アスペルガーなどにおいて典型的なのは、そのこだわりにひっかかるような知識の場合は逆に、定型発達の人よりもずっと「学べば、身につく」が早く、強い才能、普通はできない発想などを導き出す場合もあります。
そのような、この世に「需要」がある分野に「たまたま」異常な興味を持てるアスペルガーは、非定型発達でもむしろ定型発達の人より才能がはっきできる天才と呼ばれるひとたちになります。
ですがそれは主に定型発達の人の思考のように「需要」があるからそれに興味を持てたんじゃなくて、先天的にそれに興味を持っていたものが、たまたま世の中的に「需要」があっただけなのです。
すなわち重要なのは、非定型発達では、「好き」も「得意」も選べないということです。普通だったら、このスキルがあったら食っていけるよ、と「需要」があると思ったらそれを「好き」「得意」になろうとして、実際それが好きか少なくとも得意(普通にこなせる)になれたりするはずです。これは、特殊な技術や学問だけでなく、いわゆる車の運転とか、家事、結婚、育児、社交性、会話などの「常識的なこと」も含まれます。
普通は「好きこそものの上手なれ」と言いますが、「好き」だけど「得意」でないもの、「得意」だけど「好き」でないもの、などもありえると思っています。そしてさらに、もし「好き」と「得意」が一致するものがあるとして、次はそこに「需要」を必要とすることになるため、余計に大変です。
例えば私としては、ラテン語・ギリシア語とかがとても好きです。それでいえば、もし私が150年くらい前のヨーロッパに生まれていれば、もう天職は決まりきっていました。ラテン語・ギリシア語の教師になればいいのです。
当時は、今の5教科の学校の先生と同じくらい、その需要がありました。今の5教科の学校の先生が仕事で生計立てているのと同じくらい、ラテン・ギリシア語の先生で生計を立てられたことでしょう。
ですが、今はそんなものはほんの一握りの大学に1~2講座あるくらいです。その1~2講座も、表向きに公募かけていようがそうでなかろうが、一般公募で決まるとも限らないでしょうし、かなり大きな宝くじを当てるよりもなりにくい席だと思います。もっというと、その1講座もらったところで、場所には束縛されるのに、年収30万増える程度のものです。
同じ言語でも、英語の勉強は得意ですが、何か響き?があまり気に入ってなかったりしてつまらないし、特定の外国に行きたいという気持ちも全くありません。英語に関しては、テストの点はいつもよかったので、「得意」と「需要」はあるけど、「好き」が完全に欠落しているので、イマイチ教員資格獲得とかまでのモチベーションにいかないのです。(そこまで好きでないものと、一生付き合うのも…みたいな)
その代わり、ラテン語やギリシア語をきいていると、「好き」の力がすごいです。どうしてこんなにこの言語の響きによって懐かしくて楽しい気分になれるのか、自分でも理解できません。この言葉への興味は、本当に、先天的という言葉を使うしかないのです。言語を、コミュニケーションツールではなく音楽や芸術として捉えがちなのかもしれません。
何かこの言葉が使われていた過去の世界のかけらを想起させられ、この言語が使われていた世界を、見てみたくなります。こういうどこか美的感覚に基づくシナステジア的な「知識へのこだわり」が非定型発達において生じ、仕事選択に影響します。
古代ギリシャ・ローマはもちろん、その後の宗教的な文脈としての古代より後のヨーロッパ文化におけるラテン語も実はとても好きです。「需要」が全くないのはわかっています。役に立つものより難しい上に、全く役に立ちません。
私において、「好き・得意・需要」がある程度満たしている唯一の方法は、占星術かもしれません。哲学・言語学も「得意」と「好き」が重なる点ですが、「需要」があまりにも壊滅的です。占星術も生活必需品とかではないので、「需要」がそこまでという感じではないですが、哲学とかよりはまだ「効果」のようなものあり、まだましです。
占星術を、少なくとも今まで500人以上は見て、やりとりとかもしてきたと思いますが、最も一番最初から見ているのは、やはり自分のホロスコープです。
本来、非定型発達の特徴を持つ自分は、よりパブリックな社会常識・科学的思考・社会心理学的な側面の適職判断をしても、非定型発達であるということと矛盾するそれらからは当然全く答えが出ませんでした。なのでそういった世界の外にあるオカルトの占いの診断に自然と答えを求めたのが、そもそもで占星術のきっかけだったとすらいえます。
そしてまた、自分に関しては、占星術でも実はちゃんとした答えをまだ得ていません。まあこの自分の占星術の図がお客さんで来た場合、こういう仕事がいいよって出す結論はもちろんありますが、深く知れば知るほどわけがわからなくなります。
私には、占星術でも非定型発達の特徴のようなサインは思いっきりでており、仕事にはその星がきています。蠍座冥王星MC10室という組み合わせなのですが、ある意味では、240年に一度、10年くらいの間、毎日に2時間ずつ起こる配置というか…。
実際のところ「天職がないのが天職」みたいなものもあるかもしれません。その意味では、やはりヴィトゲンシュタインの生涯からは刺激を受けます。いわゆる世界や社会、他者のために大河の一滴として自己観測史上一度だけの時代の自己観測外の未来を変えていくような天職ではなく、何かストレスなく生き延びることができる特別な収入があって、残りで昔の仕事みたいな何か「好き」「得意」が一致する学びの世界に浸れるような…。
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