ザ・フール

εἰ οὕτως τάλας εἰμί, λιμὴν τὸ ἀποθανεῖν. οὗτος δ᾽ ἐστὶν ὁ λιμὴν πάντων, ὁ θάνατος, αὕτη ἡ καταφυγή. διὰ τοῦτο οὐδὲν τῶν ἐν τῷ βίῳ χαλεπόν ἐστιν.

私がそんな風に苦しみのなかにあるならば、死とは港である。全てにとっての死こそが港であり避難場所なのだ。それが人生の難しさを退けてくれる。

エピクテトス διατριβαί 4.10.27


「自殺」と「反出生主義」に対して反論できるのはスピリチュアルしかない。唯物論の結論はいつも「生まれない、生きていないのが一番」になるから。


 唯物論と経験論は生を肯定できない。すなわち、私たちは物理法則や社会のあり方を学ぶが、そこで同時に死の必然性も学ぶ。最も唯物的な文脈では、この世に意味はなく、ただ物理法則だけが世界を成立させている。

 もしその物理法則や科学的発見が唯物論者の言うように絶対真実であり、それを凌駕する理論はもはやなく、それに反する言論は愚かだという言葉を信じるならば、まず生は苦労であり、勉強し労働しなければならない。しかもそれもいつか無に帰す。

 少なくとも、唯物論的には意識の主体である私は、生の状態にある以上は常識的法則により必然的に苦痛を経験することになる。そして死の状態にあれば主体がなく苦痛の経験は無となる。その意味では、「苦痛の少なさ」においては死のほうが優れている。生きているよりも、死んでいるほうがいい。

 この結論は、このエピクテトスたちのように、現代の唯物論と方向性が同じ思想を持ったストア派のいくらかの賢者たちが同じ結論を出しており、古代から時代が進んでも何も変わっていないということがわかる。


 私たちの世界では、常識を逸脱した者を、愚か者とみなすが、常識が絶対である可能性は、絶対ではない。常識の前提では死は生よりも優れているという結論を生む。それに対して、生が死よりも優れているという結論は、その常識の外の世界、スピリチュアルという彼らが愚か者と呼ぶ者の思想しかありえないのだ。

 常識の思想では、前述のように、生きることは苦しみなので、苦しみのない死のほうが優れているということになる。

 それに対し愚か者の思想の結論は、生きることは必ずしも苦しみではなく常識では認識できない意味があるので、死よりも優れていることになる。

 常識の思想では、努力や勉強がなければ恩恵を受けられないが、愚か者の思想では、より自由な論理の飛躍により、常識上の物理法則よりも優先的な上位存在の力があるので、恩恵を得るために、必ずしも努力や勉強が必要ない。なので生がより自由で享楽的になり、生が肯定される。

 または愚か者の思想では、常識において死後が無であるというのが違って、死後もなんらかの有があり、その死後の有のあり方に大変大きな影響をおよぼすために、生の間の生き方がとても重要になってくる。その場合は、生でやるべきことがあるので、生が肯定される。


 ニーチェは、宗教の時代が終わり、その時代のメタ的な時代となった現代においては、「自己肯定感」が最大の上位者的存在だと言った。自己肯定感は、生の肯定でもある。唯物論では、生は肯定できない。愚か者の思想では、生は肯定できる。もちろんそれと同時に、死も肯定できるのだ。


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