Engagement
社会貢献とか世の中を良くしたいとか、そういう考えに合理的に至るには、個人的には「輪廻転生」がないと無理だと思っています。経験論と、理詰めの文脈においてです。
つまり、輪廻転生がない場合、人間の経験は一度きりなのだから、社会を変えたところでその頃には自分の人生はもう終わっていて、もう新しい社会を観測できない。だけど、輪廻転生がある場合、仮に前世の私の記憶を失うとしても、私が変えた社会に再び住むことができる。
意識のハードプロブレムとか、死後の世界の話は、人間の理性の実証主義を超えているので、真も偽もなく、絶対とする箇所も排除すべき箇所もなく、ただ可能性としてのみ存在しています。
その上で、私が再び人生を生きることがないのならば、過去現在未来という時間軸上での私の死後の現生は私に関係なく、逆に再び人生を生きるならば、私の死後の現生は私に大いに関係があることになります。
SDGsの項目か何かみたいですが、「すべてのひとに優しくする」とか「すべてのひとが善く生きられるようにする」的な思いやり、共存共栄、みたいなものが重要になってくるのは、来世で私が優しく扱われない可能性を持つときに特に重要になります。
もし今世で私が終わりならば、優しくされなかった他者の感覚が私の中に直接入ってくることがないのですが、来世がある場合、その優しくされたなかった他者の感覚を次の私として経験する可能性を持つからです。
ただ、それにおいては、次の私が再び生まれる可能性と同時に、私が再び生まれる場所を選べない可能性についても考えることになります。プラトンの著作におけるエルの物語で、オデュッセウスをはじめとするギリシアの英雄たちは、「くじで選んだ」とはいえ自分の望む来世を選びとっていました。
エーゲ海中の島を駆け巡り怪物や権力争いなどを含む多くの冒険を経験した英雄オデュッセウスは、来世で「何もない、平凡な人生」を選びました。
こうやって、来世の生き方を選べるならば、輪廻転生があっても問題はありません。ずっと食うに困らないし愛にも困らないみたいな人生を選んでいればいいと思います。
私が、「現生の人格」を死後も保持し続けられるならば、それは可能でしょう。ただし、この死後に輪廻転生で次の人生を選んでいる段階の人格が今の私と思考が違って、またそれこそ来世の自分の性格にとって苦しみになる人生を選んでしまったらどうしましょう。
いろいろ考えても解決策がないので、結局仏教の解脱みたいな発想に至るのでしょう。ただし、こういった輪廻転生は少なくともミームというか多くの哲学思想の根底に流れていて、そのために近代に至るまで多くの哲学者たちが「世界意思」のようなものを想定していることが多いです。
すなわち、世界にはなんらかの「前進の欲求」があり、人間が生きたり死んだりしているのはその欲求の一部だということです。
パスカルが言うように、「人間は動かないのが一番なのだが、動かざるを得ない欲求みたいなものがある」みたいに、何かそういう(ある意味で自虐的な)欲求がプログラムされているという感じです。動かなければ飢えないのに、動かないでいるとストレスなのです。
生まれ変わりみたいなものも、そういう欲求で動かされている可能性もあります。再び生まれ変わるというのは、生まれなければ苦しみも不幸も感じないのに、生まれないでいるとストレスがかかって動かざるを得ないみたいに。そして人によっては、生まれたことを後悔するのでしょう。
輪廻転生がないならば、世界意思として前進の欲求があるとか、そういうもの自体ありません。仮に世界に前進というものがあるとして、私の視点が一度きりで、特定の時空間上の線分しか観測できないのなら、「人間全体の前進」は個人の観測可能範囲を超えることになります。
そこにしかしもし輪廻転生があるのならば、いわば個々人ではなく世界全体の視点でもあります。なので、輪廻転生によって現生の私である自分が観測できる範囲を超えて、前進と言う視点が可能になります。輪廻転生がなければ経験的に今の私の人生という時間軸を超えることができません。他者の利益を自分が得られる可能性があるのは、輪廻転生の世界モデルにおいてのみです。
それ以外は、基本的に宗教的観念、倫理、カントが言う定言命法の文脈です。「そういうものだから、そうしなければならない」その「そういうものだから」の理由の部分は空白です。なんでかんだで、こちらのほうが論理の飛躍感があります。輪廻転生の場合は、「そういうものだから」の部分が、「次の人生で、私が利益を受け取るかもしれないから」に変えることができます。
もちろん、輪廻転生というシステム自体が論理の飛躍だと言うことができるでしょう。なぜなら、論理とは常にその時代のバイアスのようなものを体現したものだからです。昔の「論理の飛躍」と今の「論理の飛躍」は違うし、もっと言えばあなたの「論理の飛躍」と私の「論理の飛躍」が違うわけです。それはある種この世が観測という現象のみで生じているという限界であり、またそれすなわち個々人や時代のバイアスを通さないと世界を観測できないせいでもあります。
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