死への存在


 ある意味では、最近は面白い情報が多いです。新しい時代への生まれ変わりかもしれません。もうすぐ、水星逆行が終わりますね。

 星の逆行なんて、現実の星の運動にない現象で、突然星が止まってバックしだすなんて、地球で起きたら速攻でみんな吹き飛ばされて地球が滅びます。ですが、物理法則というものが虚数という実際にこの世に存在しないもので動いていて、なおかつある種虚数なんていう「物自体」みたいにこの世に存在しないものが、存在を証明されていたりもします。


 星もまた、虚数というこの世にないものがこの世を動かしているように、実際には存在しないと人が言うような現象をこの世に作用させているのかもしれません。


 この世は、五感では観測できないけれど、想像力や情報として認識できて入ってくるものがたくさんあります。

 管理社会、情報統制、動いているのか、動いていないのかわからないもの。皆がなんらかの立場に対して、目覚めると良い、とはそこまで思っていません。これから、何より大事なのは、

「うちはうち、よそはよそ」

 それは家族であっても、隣人であっても、同僚であってもです。別にわかりあえなくていい、それが究極の許しとか愛とか言われるものなのかもしれません。


 これからの時代について、ジョン・ステュアート・ミルの「満足な豚より不満足なソクラテス」という言葉を思い出しました。

 家畜は幸せかどうか?は問われています。どれだけ管理社会でも、情報統制でも、私たちには死があります。だから、そのスパンでものを考えることが可能です。


 満足な豚より不満足なソクラテスが良いのは、ソクラテスが死の恐怖を持っていないという仮定からきていると思います。この世に満足している人も、いつかは死がやってきます。そのとき、現世の豊かさよりも、どれだけお金や名声を積んだとしてもやってくるその死に対して恐怖がない人格のほうが価値があるということです。


 ただ、だからといって別にそのソクラテスは不満足である理由もありません。一番は、満足なソクラテスでいるべきです。無駄な苦行なんて必要ありません。


 生き延びることも、死への恐怖をなくす=悟ることも、どちらも同じくらい重要です。生き延びなければ、死への恐怖の克服を学べません。

 死への恐怖の克服は、例えば「死にたい」とか何回も思っては実際には死なない、死ぬ死ぬ詐欺みたいな人生を送ることでも、実は得られるような気もするんですが、そうやって死を思うことを死なない程度に繰り返し、場合によっては死後の世界に関する1つだけじゃなく極めて多数の試論を読んで、何かひとつの死に対するヴィジョンをつくり、死への恐怖を克服したら、あとはもう人生は暇つぶしくらいな気がします。家畜がいけないとか、そういうことは善悪二元論で、家畜であれ家畜でなくて思いつか終わりがくるものです。その終わりのほうが大事ですね。

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