仕事と最終地点
仕事と個人の間柄には、「得意」「好き」「需要」の三つのパラメータがあるように思えます。ある分野が「得意」で「好き」でも「需要」がない。または「得意」でも「好き」でもないけど「需要」があるからやってる仕事など。
「得意」「好き」「需要」が全て重なる仕事を持てたら、その人の仕事はとてもハッピーです。ですがいわゆる「普通の仕事」とは、「得意」「好き」はないけど「需要」があるからやっている、というのがほとんどでしょう。
占星術で、これら「得意」「好き」「需要」もあらわせると思います。「得意」は水星や1室やセクスタイルで「好き」は金星や2室やトライン、「需要」は太陽や10-11室やMCの状態、というふうに。
一番簡素に仕事運を見るときは、10室の星と星座を見ることになります。10室は人生の象徴です。占星術では総合的に見て色々な箇所から「仕事」の傾向を取り出しますが、そのうちのひとつである10室の仕事はいわばキャリアとか生き様を表します。
ただ、占星術は宇宙的存在なので、キャリアとはいっても、例えば普通の現代人の考えるのキャリアとか、もはや崩れつつある常識的な家族像、地位、生存競争、社会貢献、血筋・世代の維持、みたいな普通の意味で出るとは限りません。
例えば、木星がすごく状態がよくMCに合しているとして、それが必ずしも現代常識における「社会的成功」を表すとは限りません。永遠の宇宙視点があるとして、それが考える「社会的成功」とほんの一時的なうたかたの現代社会が考える「社会的成功」が一致するとは限らないからです。
私たちが過去の時代を常に「迷妄の宗教の時代」と考えるように、私たちの後世からも私たちの時代はそのように捉えられるでしょう。そんな一時代の思想が、永遠普遍的な思想であるとは思えません。
MCに対してセクスタイルやトラインを示す星はきっといい仕事でしょう。「需要」が少なくともありそうです。ただ、そのMCに反応する星がハードだらけだと、「得意」や「好き」が足りなくなるかもしれません。MCに対して逆に星がスクエアとかだと「供給過多」でなかなか競争相手が多くて大変かもしれません。そういう業種に導かれやすいかもです。
もちろん、MCに対して良い配置が何もない人もいるかもしれません。それはそれで、MCではない別の優れた部分から優れているところを見出し、それで攻めていくことになるのでしょう。
仕事によってストレスが強くかかると、すぐに自分なんかは「生きるって何?」って思ってしまいます。よくわからない壁にぶつかるたびに振り返る「明日死ぬとしたら、何がしたい?」というやつです。これは、占星術で言えば土星の機能だと言えるでしょう。そしてそのよくわからない人生の壁、それは現象とも言えますし、個人の感情がつくりだしたものとも言えるのですが、それにぶつかること自体も土星の機能です。
土星とかは、命の有限性への意識がいつまでたっても芽生えず現実社会のメソッドに没入しているような人に対しては、命の有限性を意識する機会として強い病気の体験を通してそれを無理やり意識させるといった方法をとることもありますね。
土星は成長=タスク=ストレスの星ですが、同時に「疑問の星」でもあると言われます。目下のひどい状況は、現状に対して疑問を持つことを目的としているという宇宙的な発想です。
人生とは何か?を問われた時に、それをひとことで言ってしまったりしたら、とてもじゃないが言葉不足になるでしょう。しかし一つの要素として「疑問をもつこと」はあるように思えます。占星術においては土星の定義により、苦しみは常に対象に対して「疑問を持つため」にあるとも言えます。自分と対象の間のふたつの周波数の不調和を感じ取ってしまうのです。
疑問を持ったところで、すぐにそれが解決されたり、変更されたりするわけではないという現象的限界もあり、または少なくともそういうものがあるのだと経験論的に今後も想定するならば、その間はずっと苦しみは苦しみのままです。
ある種それが普遍的なプログラムのように思えます。つまり「生きていることは、苦しみである」と、ブッダが言いますが、それは前述のように土星の原理により占星術では「生きていることが苦しみなのは、生きているとは何か?と疑問をもつため」とも言えます。苦しみから疑問を持つことでその人の世界に関する定義を変化させる力があります。
もちろん苦しみとか楽しみは自分の外で起きている現象ではなく、外で起きている現象に対して反応する感情が実体です。だから感情次第で、どんな現象も苦しみにも楽しみにもなります。
世の中が一切皆苦であれ、引き寄せの法則的に波動をポジティブにしてなければ幸福がないという感じであれ、またはタロット占いのシンクロニシティや占星術の統計学的観測ででてくる結果であれ、この世の「疑問を持つような体験をさせられる」という引き寄せの先天的プログラム?機能?のようなものはどうしても避けられません。
結局そうなると、何か全体的に人は「悟ることを強いられている」みたいな感じに思えます。宗教が正しいとか、科学が正しいとか、実証主義・論理的整合性が正しいとか、それらを極めるというよりも、その俯瞰的視点を極めなければならないようです。
例えば「空性」、他人の意識という経験が記憶内になく「他人は存在している」という思い込みの実証ができないこの世における「この世に私しか存在しないのでは?」という疑問に対し、その文脈で様々な情報を読んでいくと、新しい解釈の視点がでてくるのが面白いと言えます。
マントラもズィクルも古典的ヨーガも、ひとつの終結点としては意識の喪失を目的としています。悟りとはおそらく自我意識の喪失です。(もちろん、そんなことが可能であるというのならば、ですが。)例えば、ひとがストレス解消に酒を飲むのも自我の喪失です。酔うと意識が弱くなるからです。音楽や、恋愛などにもそんな力があると思います。常に「自分でない」と気持ちが良い。
ちょうど、禅問答で「両手で叩くと音がする、では片手を叩くとどんな音がするか?」という悟りのための問答があります。そこに答えはなく、論理的思考が破綻しています。
土星はまさに、この問いを人生全体に置いてきます。「機能している」と感じる世界の崩壊、自分の持っている経験論的セオリーではどうしようもない状況を土星がつくってきます。そのとき、人は万策尽きて思考停止をします。禅問答では、そのような思考停止が「悟り」を生むとしています。
土星は成長の星でもあると言われます。前述の禅問答と同じ状況がやってきたとき、人は「片手を叩くとどんな音がするか」をとりあえず実証しなければなりません。社会的に無理難題を言われたり、助けが欲しくてもそのあても思いつかない状況がやってきます、その時禅問答では「悟り」がやってきます。それまでの論理的思考を放棄することになります。
人間社会は、論理的思考とかキャリアを築いていくのが人生のように言いますが、それは「死への存在」の考え方ではありません。死があるわけなので、いつか論理的思考やキャリアは放棄するべきものとなります。状況は実際、論理とかキャリアなんてないほうが楽だという結論を未来にもらうくらいでしょう。
土星は、努力や成長を司る仕事の星ですが、その努力や成長の放棄(サンニャーサ)までがセットなのでしょう。
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