war never changes?
インドの占星術師みたいに、毎日その日のホロスコープをみているわけではないですが、2020年のトランジットを見て欲しい的な占いを2019年にいくらか頼まれたりしていると、どうしても2020年の「星の偏り」みたいなものが目につきました。
真下にある、木星・土星・冥王星コンジャンクションがその「偏り」でした。
この偏りが何か、といえば、例えば小学校中学校とかで「A君とB君が池の周りを別々の速度で走っています」的な、なんでそんな面倒なことしてんだ的な問題がありますが、まさにそれです。
木星君は12年で池のまわり(=太陽中心の軌道)を一周し、土星君は29年で一周、冥王星君は248年で一周します、さあその木星君と土星君と冥王星君が3人ともばったり一緒の場所に居ることになってる状態は、どれくらい珍しいでしょう?という問題のような配置です。
木星は「拡大」、土星は「試練」、冥王星は「生死」だと解釈すると、それに関わる非常に珍しいこと、すなわち戦争に近いことが起きても不思議ではありません。しかもこのコンジャンクションしている地点はちょうど自分の誕生日の星座度数でした。私にも関連があると言う意味になってしまいますが、それでもできればこの「戦争」に巻き込まれたくないと思っていました。
しかし、なんだかんだで私も「現代戦争」に大いに巻き込まれているように思えます。都会から地方から逃げてきても、何も逃れられませんでした。
ギリシア語のパンデミックという言葉は「民衆の狂乱」または「民衆全体」を意味し、デマすなわちデマゴーゴスとは「民衆を導く者」という意味になります。古代ギリシアなので、そこに、感染症という概念はありません。ただもちろん日本でいう「ケガレ」の概念はありました。そしてそれは今も変わりません。正直、感染症とはひとつの「ケガレ」の思想の系譜のように感じます。そして今はその「ケガレ」の概念を用いた新しい戦争を感じます。暴力はより精神的なものになりました。爆弾や銃弾で死ぬ代わりに…。
人間は、なんだかんだでフィクションにとても影響を受けます。自分は中学生くらいの頃、浦沢直樹の『20世紀少年』という漫画が凄く好きでした。いわゆるそういった、ウイルスパンデミックの世界のSFモノというものはなんだかんだで珍しくないわけで、それが人類の無意識のバイアスに強く影響を及ぼしていることは間違いありません。
自分もそうでというか、2019年になんとなく「例えば、2020年オリンピックに乗じてバイオテロとかで、東京の満員電車とかに巻かれて東京がウイルスパンデミックになって、ロックダウンとかになったら嫌だな、だったら前もって地方に逃げておきたいな」と、少しばかり『20世紀少年』の展開に強く影響を受けて思っていました。
ただ実際には、『20世紀少年』レベルのロックダウンは起きていなくて、ウイルスの様相も当時思っていたものとは結構違います。
ただやはり、こういう現代の状況になったときに、人々がいかにいままで見てきたフィクションの「ウイルスパンデミックもの」の展開を無意識に参照しているか、というのがよくわかります。
同時に人間が「形而上的欲求」または神格化の欲求、すなわちブリーチの愛染隊長のセリフでいう「憧れは理解から最も遠い感情だよ」すなわち特定の知識・メディアに対する無意識的神格化というものを無意識で行ってしまうのだというのもよりひしひしと感じる現状です。実はそういう傾向は、一般人はもちろん、研究者と言われる人々も意外と陥りやすかったりします。
皆が、自分の努力(勉強した知識)を無駄にしたくないのです。そして、努力が苦しかったものほど、報酬を貰う執着が強くなったりしてしまうのです。だからこそ、自分の努力した分野を神格化してしまうのです。
なんにしても、上述の星配置があったので、2020年は特別な年になると感じていた人は結構まわりにもいました。自分はあまり詳しくないですが、そういった占星術をもとに、2020年を予言して有名になったインドの占星術師の少年がいるようですね。
そこでいえば、星的に2022年4月というのをひとつの節目と考えているようです。製薬会社の治験などに関するニュース記事とかを見ていても、この時期を治療薬や国産ワクチンを出すひとつの目処にしているようなので、そういった情勢が各種メディアや政治等と理想的な連携ができて最もうまくいけば、現実的な視野からも確かに節目になれるかもしれません。
4月の星配置は、海王星と木星、土星と火星のコンジャンクションが特徴のようです。海王星と木星のコンジャンクションは12年ちょいに一度ありますし、土星と火星のコンジャンクションは毎年何回かあります。2020年の木星(12年)・土星(29年)・冥王星(248年)が重なるほどの珍しさのあるものではないかもしれませんが、12年ちょいに一度と1年に数回の配置が重なるのもまあまあ珍しいと言ってよいでしょう。
私たちがこの世に「干渉できる範囲」みたいなのは、まだ不明瞭です。もちろん、例えば窓ガラスをハンマーで強く叩けば、窓ガラスを破壊するという「世界への干渉」はできるかもしれません。しかし、より精神的なものになると複雑になります。
例えば、テレパシーというものがあるかどうか?それはニューロンとかのサイズのレベルでなく、量子脳理論、量子もつれとか、場合によっては古代ギリシア哲学とすら結びつく量子力学とか、色々とキーワードはありますが「それはない」という前提からはじめればそれはそれで世界観が成立するし、逆に「それはある」という前提からはじめても同様です。
まるで量子の収縮前の状態のように、両方ともが真実なのかもしれません。量子コンピューターなんかは、二元論のどちらかが真実ではなくいわば両方の立場が真実であるという計算によって、ある意味ではより高度な計算ができています。
ペンローズによれば人間の精神も量子の作用がある以上(まあ、そもそも原子が量子でできているので、ある意味アタリマエかもしれませんが…)、「二元論において、どちらも真実」という立場は、善悪二元論ではなしえなかった、新しい高度な思考ができたりして…。
「矛盾」によって「思考停止」に至り、「思考停止」において真我・普遍意識にたどり着くヨガの一種のような、禅問答みたいですね。
まあ要は、主観的精神は、他者(世界)にどれだけ干渉できるか、ということです。精神が物質に影響を与えるという意味では、もちろんまだ「精神」は科学的に「絶対にこれらの作用で精神が成立している」もなく言葉としても幅が広く未定義ですが、腕を動かすことを精神が意志することで腕を動かすという結果が得られるように、精神(仮)から物体へと干渉しています。
まあショーペンハウアーやショーペンハウアーが大きく影響を受けたインド哲学とかの頃からすでに言われていた命題(仮)は、まだ結局(現代の主流である)実証主義で証明されているわけではありません。
意識は、複雑な概念や雑多な情報を統合することで生じ、可動範囲はあるかもしれませんが物体に影響を与えます。問題はその「可動範囲」でそれが思っているより広いといいなとは思います。つまり「平和を願えば、平和がやってくる」みたいに。そしてそれに抵抗する他の「悪い周波数」みたい概念(他人のものだと思っているけど、自分のものかもしれません)が、幻想であればいいなと。
この世が仮想現実であるとして、まあそれが物理法則として特定の立場・位置にいないと入手できないものだとしても、思念に何らかの想定外なマクロコスモスへの干渉力があればと思います。
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