民衆狂乱は人間にとってダイモーンであるか
令和2年の自殺率(厚生労働省) p.22に10代の自殺率17.9%増加、20代の自殺率19.1%増加とあります。去年でこれなんで、今年はもっと増えるのでは…。
外側の世界がいやになればなるほど、どのような外側の事象にも動じない、心の安定=普遍意識を手に入れなければ、と思います。努力によって、一時的に、気分はよくなります。でもすぐに、焦りによって精神的向上に執着してしまい、心がリバウンドみたいに乱れます。躁鬱みたいに。
普遍意識という言葉は、最近読んだ本(3年以上前に買ったのに、まだ読みきれていない)でそう呼ばれていただけで、別の人の思想で言えば、例えばラマナ・マハルシで言えば真我であるとか、ネオプラトニズムで言うト・ヘンとか、他にももっとメジャーな宗教とかでいう「悟り」だの「一なるもの」に近いものなのでしょう。
インドのヨーガは、主にそこにたどり着くための学びです。ヨーガとはサンスクリットで「つながる」という意味であり、それはすなわち普遍意識と「つながる」ことをさします。一般的にヨガと言った時に想像される柔軟体操はたくさんあるヨーガのうちひとつのハタ・ヨーガと言われるものです。
まあ、いろいろ生きていますが、本当に生きていると思えるとしたら、やはり何か自我の煩悩、束縛、みたいなのから解き放たれた時だと思います。プラトンで言えば、洞窟の比喩があります。幻想を本物だと思い込んでいる。その幻想とは現実世界とか自我のようなものです。現実世界と自我から目をそらせない状態から、解き放たれたいという欲望です。
それはもしこの世をゲームとするならば、ゲームをバグらせなければクリアできないということでもあります。
映画を見ている時に、映画の登場人物に感情移入して、登場人物が置かれた状況に対してハラハラしたりします。映画を映画だとわかりきっていれば、感情移入しないで第三者的に観察できます。人生もそうなったら最高です。でも、わかっていても感情移入して主人公(自分)と同化して一緒にハラハラしたりしてしまいます。
自分とは何か?という意味では、むかし占星術の解説を読んでいた時に、これめちゃくちゃ当たってるなあと思ってよくみたら、自分のホロスコープの条件と違う解説を間違って読んでいて、別のページの自分に当てはまるホロスコープのほうの解説を読み直したら、なんだこっちもこれめちゃくちゃ当たってるなあと思ったことがあります。
バーナム効果と言われるもので、多くの人に当てはまる事柄があるということです。個人的にはしかし、だからといって、占いはなんでもない、とい思っているわけではないです。
バーナム効果は「より賢い状態」と「より賢くない状態」すなわち啓蒙的関係性のようなものがないと、成立しない勝ち負けのようなものに思えます。善悪二元論がなくなったら成立しません。何かについて、論破みたいなことを言っている世界の住人、もちろん占いも予言合戦・人気・コントロール勝負みたいになればそこにいきます。でも別に、争うことがこの世の本質ではありません。(そう思いこみたい人もいるかもしれませんが。)
それでいえば、話はそれますが、古代ギリシアにはより公的権力の強い占いとして、デルポイの神託がありました。神託はそれこそバーナム効果の世界でもあり、いろんな意味にとれる「予言」をおのおのが自由に解釈します。
あいまいな表現の占いに、政治家が自分にとって最も都合の良い解釈を付与することは容易です。
古代ギリシアを大学院で学んだ者として色々関心できるところがあるゲームである、アサシンクリードオデッセイなんかでは、デルポイの神託の解釈を自分の思い通りにして政治を操ろうとする集団などがでてきます。
実際のところそのようなバーナム効果の利用のようなものは現代でももちろんビジネス・政治・経済に深く根ざしていることでしょう。
ものを売る時、割とどうでもいいことをさもすごいことのように言わなければいけないときもあるでしょうし、今も昔も人々を煽ることでお金を得ようなんていう目論見ばかりです。
さても、こういった占術みたいなもののもつ可能性(まあ、占術を通してでなくてもいいのかもしれませんが…)として思うのは、ダイモーンといわれる古代ギリシアの概念です。
前述のデルポイの逸話でも有名なソクラテスにはダイモーンに関する逸話もあります。ソクラテスのダイモーンは、「この先は危険だから、行かないように」と頭の中で囁く守護霊のようなものでした。逆に言えばそれによってはじめて行ける場所などが存在します。
またヘラクレイトスは「人間にとっての性格とはダイモーンのことである(ἦθος ἀνθρώπῳ δαίμων)」と言いました。その人の先天的好みや、たまたまテストの点数がよかった教科の学部に進学したりとか、そういったものはその人の人生をつくっていきます。
ソクラテスとヘラクレイトスでダイモーンという言葉の意味は微妙に違いますが、両者の言うダイモーンを統合して発展させたものとして、ジェイムス・ヒルマンの言うダイモーンがあると思えます。
占いに限らずですが、要はこの世で私たちの周りで起きているひとつひとつの出来事には「目的があるのか?」という問いにつながります。もしこの世に、例えば生と死を俯瞰できるレベルでの視点からみた個人の目的や目標がある場合は、こういったダイモーンのようにその人の人生に目的があるためにそれを手助けしてくれる存在や、または先天的なその人の特徴などがあると考えることも可能です。占星術は、主にそういったダイモーンとしての役割をもつことになります。もちろん、ひとつひとつの出会い全てがそうだと言えますが。
占い・神託・ソクラテスやヘラクレイトスやジェイムス・ヒルマンのいうダイモーンなどの中身が、果たして意味があることなのか、それとも政治的利用すら可能なバーナム効果を発生させるだけの無意味なものなのか。
占いをやっており、それがヘラクレイトスの言うエートス(先天的性格)にも関わりがあるので、前者を私は支持することになりますが、もしも私にそのエートスのようなものがなく、または占いやオプティミスムを否定することで利益をあげられ、利益に命がかかっているような立場にある場合は、もしかしたら後者を支持してしまうかもしれません。
前者の立場として、思考実験だけど否定もできない世の中の構造に関することとしてシミュレーション仮説のようなものもあります。
すなわち、世界に意思や目的がある場合、ダイモーンのように人を導く存在、仮に予言が当たるにせよ当たらないにせよ、予言に導かれてしか辿り着けない目標がある場合は、占い・神託・ダイモーンに強い意味を持つことになりますし、当たる当たらないは(理屈っぽく卑怯くさいかもしれませんが)関係ないことになります。
それに対し、世界には何の意図もなく、乱数の自然発生と消滅を繰り替えしている一部を切り取ったのが自我意識である(ではその原因は?と無限に意味をききたくなるのですが)場合は、この世で遭遇するものは、何の意味もありません。ですから、全ての立場の意味はありません。意味がないということにすら意味はありません。
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