Wille zum Wiederholen

 大学の頃、西洋古典学の授業で、先生から「その人の翻訳がいかに間違っているかを、ひたすら書いていかなければならない」と言われた。細かい間違いを指摘する性根の悪さとかというよりも、研究と言われるものが現状そういうことしかすることがなかったということだった。「歴史には"もしも"以外何も存在しない」のだから。


 哲学とかも、高校倫理で面白かったので、何かもっと大学で深く学べば「世界とは何か?」「生命・認識・意識とは何か?」とかがわかるかと思っていた。

 結局のところ自分は歴史とか科学とか、「これはこうである」と一方的に言ってくるけど、その根拠は?と問い続けた時に、最後まで脱落しない一番実証的なものが欲しかった。

 すなわち、歴史も科学も「世界五分前仮説」とかいろいろな思考実験を乗り越えられない。現代、すなわち実証主義が確固たるものになって、200年くらいだろうか?大学の指導教授だった先生と1対1で話している時、先生が「実証主義の時代も、もうすぐ終わりが来るんじゃないかな」と言っていたことが、ものすごく印象に残っている。

 今までの歴史においては、経験論・統計的正しさとかも、その仮説を凌駕する真実が存在したら、全て間違いで過去のものになる。例えば、毎日エサをもらってくらしている家畜たちは、明日もエサをもらっていけると思っている。もしもその日、その農場の家畜を皆、処分しなければならないみたいな決定があったととしても。


 これはかつて読んだ本の茂木健一郎さんのコラムの中で書かれていた定義なのだが、そこでは宗教の閉鎖的な「不変性」に対する科学の特徴の「可塑性」のようなものがあるとされていた。

 実際「宗教」という言葉の指す範囲はものすごく曖昧でほぼ定義不可なのだ。学んできた物理法則を絶対不変だと信じ込む科学者は「宗教」になるし、逆に宗教がもしも不変なら教義解釈上の派閥争い戦争は起きないわけで、戦争だらけの歴史を長い視点で見れば教義が変化しなかった巨大宗教はなく、可塑性があるので宗教は科学の定義に入ることになる。

 哲学がプラトンの注釈で、仏教なんかもそれぞれの悟りのメソッドが大量にあることなど、どちらかといえば可塑性があって宗教なのに科学の定義に近い。もしある宗教に生まれ、他の思想に影響を受けずに死ぬまでその宗教の教義を信じ続けるという主体的体験があったとしたら、この定義上の宗教ははじめて成立するだろうか。

 いずれにしても可塑性がある思想に関しては、他の情報を常に受け入れ変化していくなら、それは永遠に未完成のままだ。新しい発見があるたびに真実が変わっていく。


 そして世界には、不完全性定理みたいなもの、何か常に矛盾を抱えているのが本質みたいなところがある。例えば問題集を解いていて、問題に正解しても、正解するたびに回答がいちいちまるで書き換わっているかのようだ。

 シュレーディンガーの猫の生死が、観測によって現象が収縮して答えがでるにしても、常に「自分の答えと逆」になるようにできているみたいな。

 そんなふうに、世界の根底にある物理法則というものが、時間とともにオンラインゲームのヴァージョンアップみたいにされていたら、なおさら完成するときがない。


 個人的には、世界五分前仮説みたいな今風に言えば「陰謀論的」だけど世界の構成上パラドックス的に絶対実証できないようなものを盾に、歴史なんて実際にあるかもわからないものを覚えられないとか勝手に言っていて、世界史も現代科学も覚える気ゼロで、ただ「この世とか自分とか時間は本当に存在しているのか?」だけ疑問だけがあった。こういった話が通じる友人は二人とも障害者手当をもらえた。だから私も精神障害認定して手当くれ。もちろん、手当くれないなら認定なんざいらない。


 そして、大学にあるのは結局「哲学学」、すなわち文献学であって、昔の哲学者が提案したいろいろな解釈ができる概念の翻訳上の定義を考えることであって、哲学のなかの「意識のハードプロブレム」について考えるようなところだと思っていたら、逆で「語り得ぬもの」については(少なくとも公的には)語ることができない世界だった。それを「実践性」と呼ぶのだろう。

 自分はいつになっても意識のハードプロブレムが興味対象になっている。まるでキリスト教徒のメシアの到来を待ってるみたいにハードプロブレムの正体について知りたいと思い、なんど挑戦してもなんの答えもなく、その間に何か他の仕事をやっていればとかそういう話になるだけです。


 また、哲学について考えられるにしても、常にそれは先行研究を踏まえた上でしか考えられない。つまり、古今東西の長い歴史を持つ哲学について広く知っていなければ議論するに値しないとみなされているが、それはそれで考え方に偏見ができるような気もする。


 哲学者=哲学をたくさん学んだ者、というある種の偏見は、やはりたくさん勉強したほうが価値があるとされていることをベースとしている。

 たくさん勉強することはいいことなんだろうか?それもまた、個人的には「この世(自分の人生)に目的があるのか?」の答えがないと、善悪というものの基準がなく、勉強の善悪にすら答えられない。


 これは少しニーチェ的な問いでもある。人間のルサンチマンにおいて、人は自分の苦しみを正当化するために「真実」の援護を用いる。

 すなわち、努力して得たものは、努力しないで得るものよりも価値がある。その公式を成立させるために「真実」という概念を用いる。努力して得たものには「真実」という付加価値がなされ、努力して得ていないものには「真実ではない」という付加価値がなされる。もちろん、真実とか偽というのはひとつの視点にすぎず、真実は別の視点からしたら偽なのが常である。

 そういった真実に関する相対的な地平の上で、努力によって真実を得ようとするのは、または努力によって「真実度」を強化するという習性は、ある種の補償的本能みたいなものであり、「力(成長)への意志」なのだ。

 努力とは「何度も繰り返すこと」だ。それは同じことを何度も繰り返すわけなので、同じであるというのは生物にとってはひとつの苦痛だ。同じだと「成長していない」から。

 ただ、「何度も繰り返す」ことで「真実」を得る、という図式がひとつの物理法則だとしたら、例えば同じ化学反応や原子の結びつきがとんでもない数繰り返されることで人間に目視できる物質ができていたり、そのベースにはやはり「何度も繰り返す」ことで「物質化」ができているというモデルにおいて共通している。

 しかしもちろん、常に「真実」とは存在というよりも「視点」のひとつなのだ。「何度も繰り返す」ことは視点を固定し、確かにそれは「真実」という状態を作り出すかもしれない。真実というものが、本来相対的なものを一時的に絶対視することでできあがっているのならば。

 何度も繰り返すという、一番最初は精神的原理に発端をもつ行為がやがて物質化するという意味では、引き寄せみたいな意味にも多少結びついてくる。何度も何度も思念を繰り返すことで、現象が「物質化」する。

 しかし、個人的には、全体の原理として気に食わないのは「何度も繰り返す」必要性というものだ。多くの人が、それは占星術で言えば土星の原理だが、その「何度も繰り返す」の原理を受容し、そこに真実を求めるなら、道がどうしても遠くなってしまうから。

 私はノードに土星が激しくアスペクトを作っているため、土星にカルマがあるし、土星的なものに対してそのために特別な体験をしてきている。ある意味でニーチェがいう、自らに苦難を求める宗教のような「善悪の倒錯」にも関連があるとも言える。


 哲学の究極地点は哲学者の代表でもあるカントの著作の末尾「答えのない議論をやめて、畑仕事でもやりにいこう」のようで、まだ先があるような気もするようなというくらいで…。

 そもそも生まれなければ色々考えることも、生きるために苦労することもないので、どちらかといえば感情的に、いままでの自分の人生や、今の現状などによって反出生主義にはとても共感するが、考えすぎると、生まれてない場合は「自分」が絶対にないという保証すらもなく。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000