レテ vs アレテ

 場面緘黙症という言葉が、どれくらい昔からあるのかはわからない。ただ、ある程度の割合の、とくにある種繊細な人間はおそらく成長期に発症し、またその重さみたいなのもきっと様々なのだろう。自分の場合は、特にひどかった数年間は、一部の人を除いてほとんどの人との会話中にそもそも頭が真っ白な感じになって、ドラクエの主人公みたいに、「はい、いいえ」しか言えない感じを体験した。

 スピ系の話で、ウォークインという概念があって、なんか人格が変わるようなことを意味する。成長期とかは、当然ながら周りからはちょっとしたことかもしれないけど本人にとってはものすごくショックの大きい出来事で、または周りから見てもショッキングな出来事で、人格が変わってしまうといったことはよくあるだろう。

 自分の場合は、中1くらいに場面緘黙症の感じがではじめ、高1で本格化した感じがあった。中1には、ある意味では衝撃的な出来事はたくさんあったので、どれがきっかけなんてのは言えなく、全てがきっかけだったかもしれない。多くの成長期の人にっては、体つきが変わっていく感じとか、または誰かを好きになってしまうといったはじめての衝撃的な体験があり、そのつど人格や行動基準・行動パターンは変わってしまうだろう。

 そういった変革は20代をすぎれば落ち着くと言えばそうなので、思考はもちろん20代以降も変わっていくし、相当にショッキングな体験はもちろん人を変えてしまうが、頻度のようなものは下がり、根本的な土台はもうできている状態にあるかもしれない。

 スピリチュアルは、子供の頃はうさんくさいと思っていたけど、今思えば逆にそれが思い込みで、別に「この世ではこんなことは起こりえない」というのに実証的根拠はなく、歴史をちゃんと学ぶと逆に、そもそもそれまでオカルトだった領域から一部科学的事実が抽出され続けている歴史が確認できてしまう。そして、今までの歴史上行われてきたように、「あの宗教は間違いだ」とオカルト認定をすることで自分の宗教の正当性を主張することができるので、そこで政治・経済的に特別な状況を作り出すことはできるけど、それは政治の問題であって科学的研究の発展には必ずしも繋がらないということもわかる。


 実際、ある時代・世代特有の考え方みたいなのがあって、それが視点を狭めていたり、そこをもとにつくられた古い「科学観」の教育が下の世代に受け継がれていく、そんな傾向もある。ただいまは、スピも科学も、いくらでも情報があり、その気になれば、日本だけでなく海外の権威のある機関や大学の統計・論文などを検索して読むことはいくらでもできるし、外国語がわからなくても無料で翻訳もしてくれる。

 だからその古い科学教育の閉鎖的な引き継ぎの連鎖はほんの一部においては駆逐されていく。しかし、まだそれがメジャーな分野にまではなっていない。


 海外においてはもう、その「新しい科学観」の国家的成功すら見えてしまっている。日本はどうしても、学問というもののあり方が前時代的、閉鎖的すぎたし、リテラシーにどうしても差がついてしまっている。古い教育をリテラシーとしたまま、動けなさすぎた。新しい時代の息吹を、直感的に感じ取れる人がいても、もったいないことに、古い教育で無駄に上書きしてしまうのだ。

 もちろん、それに内面的には抵抗している魂みたいなものもいて、でもそういう人は、現状のこの世では、精神疾患になってしまうかもしれない。不登校を起こす魂(=先天的思考力)には時々、現状の教育の「矛盾」に気づいてしまっている賢い魂というのもあるかもしれない。

 人生が死ぬまで暇つぶしなら、暇つぶしの結果があろうがなかろうが、何か必死になれるテーマがあるのは適切な人生の暇つぶしの仕方だと思う。それがもしも、間違った思想を深めることであっても、「間違っている」は特定のパースペクティブがないと発生できない。

 つまり視点Aから視点Bからの距離が離れていることを視点Bが視点Aを「間違っている」という構造があるわけで、この世に何か間違いの元型があるわけではない。(プラトン的には、イデア界には「間違い」のイデアがあるのかもしれないが…)

 人は死によって、その視点Aとか視点Bみたいなパースペクティブ自体を失う。少なくとも、死後の世界があるとしても、もうそこに現世的な尺度はないだろうと思う。だからこそ、人生が暇つぶしであることが成立する。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000