ダーザイン

 社会と関わるようなことに嫌気を持つのは、例えば特定の信条や好みを持つと必ずそれに対立する勢力との出会いがあるからだ。しかし人間には静止したくてもできないプログラムのようなものがあって、それによって他者と関われば対立してストレス、他者と関わらなければ孤独によるストレス、となってしまう。

 唯一のストレスを受けない道は、対立なしに他者に関わることだけだ。もちろん、それが常にあるような状況は想像上は不可能ではない。その場合は、常に快楽のみを得て生きていけるだろう。

 人が生きる目的はドーパミンの取得であり、それはテレビゲームみたいに、特定の条件を満たした時にドーパミンを得ることができる。そしてまた、その取得条件はゲームが進むにつれて変わっていく。

 すべての科学とオカルトの願いは、人生というドーパミンのゲームに関してのチートモードやデバックモードに入ることである。

 ゲームには、ヴァージョンアップがあり、常に色々ナーフされたり上方修正されたりする。だから、答えを見つけてもすぐに流れていってしまう。そして、一応伝聞ではゲームの終わりに関しても告知されている。そこには、痛みがあるとも快楽があるとも、随分と曖昧に告知されている。

 ある意味で人生の目的というか、そんなものをそういったように定義するならば、この世のどこに実存があるのだろうか?フロイトのリビドーがユングに受け継がれて意味が広くなったが、それこそがいわばドーパミンであり、実存性だ。

 人間に自由があるとしたら、そのドーパミンのデイリーミッションを書き換えるようなことができる存在だということになる。例えば、神を信じる人はお祈りでドーパミンがでるだろうし、しかし無神論者は神的なものに関わってもドーパミンなんて出ないだろう。ただ、無神論者の場合は例えば宗教者を見下すような時にドーパミンがでるかもしれない。同じように、宗教者は無神論者を改宗できたらドーパミンがでるかもしれない。

 そういった戦争はむなしいので、できれば他者のコントロール以外でドーパミンを出したい。自分が自分で永久機関にならなければならない。けれども他者を使わないとどうしてもドーパミンの量が足りなかったりする。

 これが、対立やコントロールの権力争いが嫌で他者と関わりたくないけれど他者と関わらずにいられない理由だ。これを抜け出すには、ドーパミンの定義をバグらせるしかない。


 インドはとにかくそのような観点でずっと哲学思想が続いてきた伝統があるので、そのバグに成功したという伝記が多い。天使人症候群みたいなのもあったと思う…。

 ラーマクリシュナ、ラマナ・マハルシなどは、一応そういう境地に達しましたということで伝記や言動録が残っている人だ。もちろん、他人のクオリアのようなものを証明することはできない。ただ、この世としてはこういった境地が本来の目的であるはずなのだが、目的達成のためのサブミッションみたいなものが人生のプリママテリアかのように扱われている始末。

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