Essen essere est
今の自分が自由でないのは食に関することで、添加物や強い味の依存症とかそういうものかといえばむしろ逆で、家族で飯を食べることが必須となっているせいで、添加物や強い味にさらされることを強制されている。たまに、自分で作りたいものをつくると、とてもほっとする。
一人暮らしの頃や、一人暮らしに近い生活をしていた2年前までは、食の自由があった。自分で自分のために飯を作っていた。そのために実践的な食に関する知識を得たりや食材の比較をする機会が多くあって、食自体はもちろん、飯をつくるという手先の作業や知識や感覚を用いることすらもストレス解消になっていたのだと今思い返す。
多くの哲学者・聖人などは自ら望んで「ひきこもり」だった。すなわち一人暮らし、孤独な生活を行った。なぜなら、それは自らの波動修正になるからだ。余計な波動にさらされず、また余計な波動にさらされない術を一人暮らしを通して学ぶことで、自分の一番ふさわしい波動へと自分の波動を修正していくことができるのだ。
いろいろな知識を得ることで、自らの波動が形成され確立してしまったからこそ、違う波動の食材や食卓同席者などに痛みを感じるようになってしまうのだ。
上記ふたつのリンクはまあなんだかんだ同じことを言っているようなものなのですが。
コロナによって制約ができた「娯楽」は色々ある。旅行、飲み会、そういった機会は自分にとって好きなものでもないので、規制されたところで特に何の問題もない。
ただしヒトカラに行けないということがものすごい影を落としている。自分にとって、コロナによって最も大きな被害をもたらしたのは今のところこのヒトカラだ。もともと、コロナ以前からインフルエンザの時期は行くのをためらう傾向はあったくらいの疾病恐怖は持っていたので。
コロナの影響で、正直自分にも仕事や居場所がかなり転々としているという影響力もあるのが、より人間として根本的なメンタルの問題を引き起こしているところのほうがより強い。
また、今回足を骨折したことで、散歩というものもできなくなった。こんなに歩かない日々は、人生の中ではじめてだろう。
同時に、そんな風に必要以上に歩けない時に何をしていよう、と思っても、もはやゲームではそこまで暇つぶし、ストレス解消、ドーパミン取得ができなくなったことも実感することになった。
散歩、(ひとりでやる)農作業、ヒトカラ、理想的な食生活、家事、そういったものがどれほど自らの安定に役立っていたことか。いつか命は捨てなければならないので、それらすべてがいつかはできなくなることだとしても。
人生の最大の幸福であるところの「自分を一番自分らしい波動に調整する」には前述の通り、お金が必要だ。最も自分にふさわしい食事を取り、最もふさわしい人間関係を維持し、最もふさわしい住居に住み、最もふさわしいルーティンを過ごすこと。そのために、お金が必要で、お金のために、仕事が必要だ。
コロナというか、コロナに対する社会の対処によって、自身の仕事にも色々と軌道修正や運命の渡し舟のようなものが入った。いや、軌道修正というとき、そこにひとつの到達点のためのふさわしい経路が存在するという前提があることになるが、いまのところそれはどちらかといえば「それが道であってほしい」という願望とも言える。
いずれにせよ、コロナによって嫌だった仕事が一時的になくなったり、リモートワークをもらっても、それも1年にも満たない短い命だったり。人生に先天的計画のようなものがあるならば、答えを得られずさまよっているよりも、答えを得てしまって無為なほうがいいような気すらしてしまうけれど。
0コメント