Qui fert lucem

 ラムシュタインと出会っていなかったら、ドイツ語をやっていなかっただろうか。ドイツ語専攻に居るような人や先生と違い、自分はドイツと子供の頃から縁があったとかではなく、むしろ全く関心もなく、どこにあるかすらよくわからないくらいだっただろう。

 それが、ここまでドイツ語と関わる事になったのなら、何か理由があるとか思ってしまうもので、シュタイナーとかユングとか、またはより普通でメジャーどころでいえばカントだとかハイデガーだとか、ドイツにはある種特別な思想家や哲学者とかはいるものだけど、いずれも何か、自分の決定打みたいなものにはなっていない。

 何かドイツ語を学ぶことでのみ得られるもの、得られる知識、そして得られる道、があるかのように偶然的にこの道を選ばされた感があるのだけれど、いわゆるパーツだけもらって、そのパーツを使って合成する対象がない。これだけやったドイツ語が、いまのところいわゆるライフワークみたいなのに関わっていない。いや、そもそも自分にライフワークなんて、あるのか?


 いわゆる「学び」は一時的なフラッシュみたいなもので、玉ねぎみたいなもので、何か立派な到達点、魂の到達点、大いなる叡智に繋がるきっかけ、道、そんな風に思えてしまうけれど、いまいちその実感がない。

 つまり、学びを深めていた先の光景には、大きさの違う塔のようなものが何か乱立しているだけというか、自分もその塔のうちひとつを登ってきたのかもしれないけれど、その塔のひとつでも空には届いてはいない。そしてそもそも、そこでいう空というものが、本当にあるのか?という問いだけが、残るというか。


 大学時代には、ひたすら翻訳というものについて学ぶことになったが、それは同時に情報の相対性について学ぶことでもあった。私たちにアタリマエの顔をして届いている翻訳を絶対に正しいと証明する術はない。

 宗教の聖典なんかは特に、翻訳ひとつで歴史が変わる。また、最近の文献だろうと、例えば現代はよく「パラダイム・シフト」という言葉を使うようになったが、トマス・クーンが著書の中で用いた「パラダイム・シフト」という言葉の意味にも研究として非常の多くの諸説があるくらいだ。

 古代ギリシアの言葉なんて、特にそうだ。その単語の意味を、語源から考えるのか?文脈から?それとも他の生活習慣に関する叙述から?pharmacyという単語はいま「薬屋」と訳されるだろう。ギリシア語の最もシンプルな意味は「運ぶ人」であるが、呪術師、毒薬調合師、占星術師、などと色々訳された実績がある。政治の状況や翻訳者の個人的立場、スポンサーなどによって意見がころころ変わってしまう。それはまるで現代社会の情報発信のあり方のようだが…。昔から変わっていないのだ。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

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