ヘルツェロイデ

 映画のサブスクに登録したので、ときどき映画を見る。なぜか岩井俊二映画が結構あったので、見たり見なかったり?している。10代の頃、邦画が好きで毎週レンタルして何本か見てたりしてた。

 特に、岩井俊二の映画が好きでよく見て居た。アートフィルムと、都会への憧れだったと思う。なので自分が好きだったのは、「退廃的で幻想的な都会の建物」「狂気」「芸術性」がある『Picnic』や『undo』とかで、「田舎」や「いじめ・葛藤」とかが主題の『リリイ・シュシュのすべて』とかはちょっといまいちって感じだった。

 2000年代は自分は小学生であり、中学生であり、高校生であり(中退したけど)、大学生でもあった。すなわち、10代のほとんどというやつだった。

 ものすごく懐かしい、と感じつつ、もはやこれは「痛い」です。行動が恥ずかしくて痛いとかの「痛い」ではなく、なんか歌とかである「胸がしめつけられるような感情」の「痛い」、すなわちドイツ語でいうヘルツェライト(Herzeleid)です。アーサー王伝説でいう、ドイツ中世文学でいう、パルツィヴァールの育ての親(ヘルツェロイデ)です。

 いまから15年くらい前に、こういう映画をよくみていました。2000年代中盤です。まず、当時が懐かしすぎて胸が苦しい、あの頃からすごく年数経ってしまったのが胸が苦しい。すなわち何か「自分が失ってしまったもの」を見ているようで胸が苦しい。そして映像が美しいので胸が苦しい。

 あと当時は自分は大学で「東京」に行くのを楽しみにしていて、こういった映画やミュージックビデオとかで東京のイメージを勝手に作り上げていました。そして、実際に東京に住んでみて本物の東京を知り、今は再び東京から故郷の地方都市に帰ってきました。「東京」とそこにある「芸術」に関するイメージと実際のものとのギャップを知り、今また東京から戻ってきて東京に行ってないのが1年半くらい。再び自分の中に「実際の東京」と「自分のイメージの東京」との間に距離がうまれてきつつあります。

 そういういろいろなもの、10代の頃と30代になった今のギャップ、東京のイメージのギャップ、10代の感性と今の感性のギャップ、そういったものが襲いかかってきて、ヘルツェライトがめちゃくちゃきてしまっています。


 思い出すのは、「あの頃欲しかったもの」です。すなわち、10代の頃の自分が、30代の頃の自分として思い描いていたようなイメージ。もちろん、10代の頃の自分がイメージした30代になった頃の自分と、30代になっている今の自分は、あまりにも違いすぎて、正直申し訳なさすぎるほどです。なんせ、そもそもあの頃憧れていた東京生活を引き払ってしまったのだから…。

 あの頃はまだ知らなかった恋愛は経験したけれど、「結婚」はしていないし、芸術の仕事をしているわけでもない。何より、あの頃最も欲しかったのは、こういった映画にでてくるような「家」だった。それはいまだに、最も欲しいものでありつづけている。つまり、それを手に入れることはできず、それどころが10代の頃に自分が住んでいた家に戻ってきてしまった。

 10代の頃、あれほど希望と未来に期待して飛び出した、そのスタート地点に自ら戻ってきてしまったのだ。それこそこのPicnicでcharaが言っているように、「世界のはじまりは自分が生まれた時で、世界の終わりは自分が死ぬ時」であって、世界の創造主が自分であるならば、自分が作ったこの人生はいまのところ、10代の自分にあまりにも申し訳がなさすぎる人生だ。

 そういった気持ちが、10代の頃好きだったような映画をみていてものすごく襲ってくる。ただ、あの頃ともう全然視点が違うということも、今改めて見返すことで気づく。宗教や哲学に関する知識のようなものは、今のほうがあるので、それによって視点がだいぶ違うと感じる。そして、登場してくる女性からどのように魅力を感じるか、みたいなのも変わったなあと思う。


 まだ手にできていない「10代の頃の憧れ」を、誘導瞑想の引き寄せの法則によって手に入れようとしている。その「きっかけ」がまだ見えないから、神頼みするしかないのだ。少しでも「きっかけ」が見えたら、有無を言わさず行動するだろう。

 人生はトライアルアンドエラーなので、10代の頃はこういうスピリチュアルを無根拠に信じていなだったが、それで人生がうまくはいかなかったので、今はそのスピリチュアルという「今までやってこなかったこと」をやってみていることになる。


 とにかくも、ノスタルジーを伴う映画の鑑賞は、本当に心苦しい。苦しい、痛いと言っても、本当に避けたいストレスや痛みとかではなく、それを受け入れてしまう力のあるものだけれど、何か物質や人生の意味を超えた世界から降りてくるような感情なのだ。

 泣きそうになる。でも、なんかうまく泣けない。いや、泣くのはとても自分は好きだ。大人は泣いてはいけないとか、全然思ってない。でもずっと泣いていない。ものすごい悲しみでも、なんか最近泣けない。だからずっと心が掃除されていないような気分だ。


 このmvは、割と最近(2018)のものだが、自分が10代の頃見ていたイメージと同じものがでてくる。このイメージのある場所は、特定の時代や場所ではなかったみたいだ。シュタイナーは、この世の起源は「イメージ」だと言っている。この世は「イメージ」からはじまったと言っている(GA157 : Denn aus Bildern ist alles geschaffen, Bilder sind die wahren Ursachen der Dinge)。自分は、これらの映画のイメージを実際に手でつかみ、自分のものにしたい。自分の周囲にこのイメージの世界を置き、そこに住みたい。その欲求のために、何かヘルツェライトを起こしてしまう。

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