El Aleph

 意識の濃度という考え方がとても面白い。数学とかで、ヘブライ文字のアレフで表される「無限の濃度」という言葉は聞いたことがあって、まあ数学は全く理解できていないんですが、どんなものでも「濃度」という考え方で表せるのが面白く感じます。

 現象である以上全てのものにはもしかしたら「意識の濃度」はあるかもしれません。

 ただそう考えると、意識は「濃度」であると同時に「所属」なのかもしれないと思います。例えば、脳が自分の体中にある色々な濃度をした意識を「統合」することができます。意識濃度が1の存在が100個あったとき、それを統合できる存在がなかったら、それは個別の1が100個存在するだけですが、統合できる存在があれば、意識濃度100を1個存在できるようになるのかもしれません(厳密には、そんな適当な足し算にはならないかもしれないですが)。

 唯識とかの仏教や「間柄的存在」の和辻哲郎とかみたいな哲学では、「縁」「つながり」が存在であるとされています。それは、意識濃度1が100個あるのを、意識濃度100が1個あると「統合」できる力だと思います。

 「意識」や「認識」がはっきりするには、意識濃度1とかではきっと足りないのでしょう。なので、意識や認識が行われているという時点で、すでに統合体です。意識や認識を認識できる限り、それはすでに統合という「縁」「つながり」をすでに起こして居ます。なので意識や認識の存在根拠のひとつとなるでしょう。


 実のところ、「無限の濃度」という考え方を、前述のように数学的には理解できていないですが、この意識も含め、世界は「無限の濃度」かもしれないな、と思う次第です。意識の成立にはそのように個別のものを統合する能力が必要ですが、それはこの世の「無限」から特定の領域を「選び出す」能力のような気もします。

 同じようなものとして占星術で、土星は「絵画の枠」のようなものと考えます。つまり無限に続く風景を切り取り枠をつけることでひとつの「絵画」が成立します。「無限の濃度」を減らすことで「絵画」が成立しています。この無限の濃度を減らす行為が古来より土星で象徴されたエネルギーだと言えます。

 もちろん、現実的に土星がそのような心理的に作用する周波数を発しているとか、量子テレポーテーション的に特別な拠点になっているとか、そういうことでなくても構いません。昔から、土星の力と呼ばれてきただけです。


 そのように、実際この世は「無限」だと思うのですが、私たちには「有限」にうつります。私たちはそもそも「枠をつけられた絵」だからだと思います。風景は無限に続くのに、写真を撮るとその範囲は有限です。しかしその切り取られた場所をひとは「芸術」とか「絵画」と、世界とは違う名前で呼びます。

 世界=無限の濃度が高い「風景」側と、人間=無限の濃度が低い「風景写真」とではお互い3次元から2次元を観察するように見えることでしょう。

 人間の4次元空間では時空間を超越できないですが、5次元空間では映画を見るかのようにそれが可能かもしれません。また5次元空間では均衡が取れている精密機械のようなものも4次元空間では何かボコボコの適当なゴミとか、ものすごくありふれたものとかにも見えるかもしれません。


 死によって、私たちは私という「風景写真」の区切り・枠を失います。それをするには、意識濃度1を100個統合して意識濃度100にしていた存在が機能を失うだけで可能です。ただ、世界にも「統合」する存在がいるのかどうか。つまり、宇宙には境目=限界があるのか。まあ、それは今度は5次元空間に対する6次元空間とか、そういうことになるかもしれません。


 いろいろとこういう難しいこと考えたり、知ったりするのは好きですが、現実的に役に立ちはしません。本当に大事なことはもっとシンプルなところにあると思って居ます。険しい道を進んでも、ただ寝転んで居ても、同じくらい悟れるということが大事なのだと思います。


 無限の濃度をあらわすヘブライ文字のアレフは、ギリシア文字やローマ字のAなので「私はアルファであり、オメガである」の「アルファ」です。Aのもともとの形である∀になるとよくわかりますが、牛の頭を意味します。

 エル・アレフといえば、ボルヘスの小説ですが、読んだことはありません。自分の中では、昔よくきいていたスペインのミュージシャンの曲です。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000