テレパス+エンパス
この世に普遍的真理なんてものがないように思えるし、客観的真実なんてのもないように思える。ただ、主体的真理しかない。
いわゆる客観的真実とか、共有できる知識、共有できない知識、そしてその集合体である社会とか世代とか、そういうものはどうしても、自分しか存在していないという意識的事実、この世の本質から目をそらすための要素みたいなものに思える。
ハイデガーは人間が「死への存在」であるという事実から目をそらすために様々なことに夢中になり、それを忘れて生きようとする、というようなことをいった。
それはつまり個人的には、「死への存在」というよりも、さらにはそもそもこの世は本質的には何もない空がまずあり、その空であり唯一の存在である自分が、まず自分の意識をつくり、そして自分の意識と共有できない領域である「他者」と自動的に作動する法則をつくりだした。そしてそのことを忘れ、自分は、自分の中のコントロールの及ばない領域のことために夢中になる。
宗教の時代も、科学の時代も、「他者に関する学問」という点は共通している。もちろん、私が脳細胞を失って、記憶や時間の連続という認識を失って、そのため自分の意識もなくなったとき、この世にはもう私にとって社会も科学も宗教も存在しなくなる。
とはいえ、私は職人でも調査員でもなく、そういった職業に対する憧れがあまりないほうだ。ちょうど良いところで議論を終えるだけの実証主義にはあまり興味がなく、そんなことよりも、気になるのは、このことだ。
私が他者と共有できる「意識の部分」のメカニズムは、どのようにして決まるのか。発達心理学もひとつのそういう話かもしれないし、一応占星術のホロスコープもその分析表みたいなものだ。
私は誰かと「意識」を共有することで快楽をおぼえる。私がそのように認識したときにそう思うだけで、もちろん、他者の心理に関しては証明する手立てはなく、私とあなたが共感をしたところで、あなたがただ表面上付き合っているだけかもしれない。
しかし、仮にこの世がそういった科学的な死生観、空やハイデガー的な世界観の真実があるとしても、今私が快楽を求めていて、同時にその手段が意識の共有であるということからは全く逃れることができていない。現在における絶対的真理は、「死への存在」であるかどうかよりも、私はいま快楽を得るしかなくて、同時にその手段が意識の共有であるということだけだ。
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