カイロン□ASCの日
トランジットのカイロンが自分のASCとスクエアになる日、怪我をしました。
惑星は順行・逆行・順行と繰り返すので、ひとつの星のアスペクトは、最低でもその期間内に3度すなわち1年だったら「3日」指定された日は起きますが、今回は、「2度目」にそれが起きました。
3度起きる「誤差0度地点の日」で、どの日がまさに「起きる日」なのか、はいろいろ言われる。鏡リュウジさんの本では、「最後の1回」が一番大事とも言っていたし、自身の経験では、1度目にそれが起きたこともあるし、今回は2度目に起きました。
それとも、スクエアなら2度目、トラインは1度目、コンジャンクションは3度目…みたいなパターンもあるのだろうか。
自分は果たしてそれを「避ける」ことはできたのか?例えば、自分がもしも、その時までに「最近ずっと願っていたこと」が叶っていたなら、それはきっと避けることができただろう。そのような世界線があるのかはわからない。
同時に私の願望も「まだ叶っていない」。ただし、ケガをする、ということは、何か強い転機を予感させるようなものでもある。
生と死とは何か?は個人的には子供の頃からこの世で最も知りたいテーマですが、現時点でなんとなくこうなんじゃないか?って思っていることと同じこと言ってる動画が、youtubeのおすすめにでてきました。
でももちろん、こういった世界システムが「なぜできたのか」とかは全く検討もつきません。量子のふるまい、物理法則、機械が作動すること。そういった前提的な「予測可能な法則」はなぜ存在するのか?は全くわかりません。
大人の知能になったら、そういう哲学的な問いの答えわかるんじゃないかって子供の頃なんかは思ってたけど、とんでもないです。
意味の探求とそこに答えがない状態。でもそんな状態もまた、「生きている間」限定の感情なのかもしれないです。
その代わりに、いま私が生きていて、確かに存在するものは、ただ純粋に「欲しいもの」がある、というその気持ちだけ。全く形而上学的なものでもなんでもないです。究極地点としては生き延びるための食料こそ最も欲しいものです。
人は生まれ、あとは快楽を求めるしかもうやることがないのです。
生き延びるという前提の次に重大な私の快楽として、いまは、ひとと居住空間を求めています。それはまだ見たことがないものであっても、見たことがあるものでもいい、それが欲しいという気持ち、すっげー広い意味で「この世には愛しかない」のです。
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