共振

 パスカルが「人間は動かないのが最も生きる上で効率が良いのに、動かずにはいられない」と言っていた。ここで個人的には「人間は影響を受けないでいるのが最も生きる上で効率が良いのに、影響を受けずにはいられない」という感じににも置き換えられる。


 エビデンスのある統計でも、権威のある人の言葉でも、オカルトでも、陰謀論でも、占いでも、解釈学でも、懐疑主義でも、人は情報から影響を受けないでいられない。ある立場の情報を受け取るとそこから影響を受け、その立ち位置のために別の立場から遠ざかったりする。

 影響を受けないでいれば、そのように心があっちこっちに行かないで済む。心があっちこっちにいくと、それだけエネルギーを消費し、また立場が変わることで人間関係の仲の良さ・悪さだって変わっていく。そういった人間関係の対処にもエネルギーを使う。特定の立ち位置を持つ情報は、すべてそのように意識でも無意識でも、深い思考でも浅い思考の部分でも、影響を受けざるを得なく、またそもそも人間が影響を受けるような情報を取得しないでいられない。

 今は、時代がそのように影響の強さ、すなわち立ち位置のA地点からB地点へ人を動かすような影響力を持つ情報の、そのA地点からB地点の距離が非常に広くなっていて、またそのような情報の個数もまた、同時点在にあまりにも多い。

 そうなると、心が疲れて来て、真実/偽の判断に疲れてくる。すると、その真実/偽という善悪二元論に対して、客観的になってくる。疲れているから、真実を求めること自体を諦める。するとそのとき、真実も偽もないという気分になる。

 真実も偽もない、それは何か、思考の老化、疲労、諦念のようにも思えるが、同時に数学やPCが進化した過程もまた、思わせられる。すなわち、AかBの二元論でなくなったとき、ものごとは進化した。量子的なふるまいの計算をPCに取り入れると、その計算力は次元が違うレベルで進化する。ただ、そのスペックを生かせる場はまだないかもしれないが。


 影響を受けたくない一心で、でも影響を受けざるを得なくて、そこから二元論を諦めて、真実と偽が同時に存在する量子的なふるまいの思考にもっていこうとする。そのとき、全ての二元論が邪魔者になってくる。

 ある人は、テレビの情報しか話そうとしない。または、権威のあるところしか、真実でないと話す。独自の思考よりも、権威の言葉を優先させる。それは、二元論が必然的につきまとう。「正しい情報」が存在している以上は、量子的はふるまいは不可能である。


 ちょうどそれは、「あなたの教祖様は、わたしにとっては教祖様ではない。あなたにとってありがたい教祖様の言葉は、私にとってはありがたくない」そのひとことに尽きてしまう。これは宗教の話ではなく、権威の増減のある2つの地点さえあれば、何にでも適応される。そしてその、権威のある場所が違いだけで、それが必ず生じる。


 または、「あなたの教祖様は私は苦手なので、あなたの教祖様の言葉を私に聞かせないでください」ともなる。そのうちで、私もあなたも二元論の両極にすぎず、善悪、真実/偽、が生じてしまっており、二元論が重なり合えず、どちらも量子的なふるまいの思考はできていない。今の現状はそれだ。

 ただ、私の立ち位置というものが、どうしても変更できない。私が1点のみの立ち位置を持っている以上、量子的なふるまいの思考に入り込めない。

 私が、私のその立ち位置を変更しようとすると、ものすごい嫌悪感にさいなまれるからだ。権威も経験論も、その私の立ち位置を変更するまでの優先度を持てない。権威も経験論も否定できるくらいに嫌悪感が強いからだ。

 私はその嫌悪感を、動物が「危険な場所」を無根拠かつ本能的に知り得てしまう能力に近いものと認識しているが。

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