♓️☊ : メンヘラvsアンチメメントモリ

 生きてる理由なんてみんな違うか、またはそもそもそんなことが考えたことがないかどっちかだと思いますが、私にとっては、生きるとか死ぬとかが何なのかを知ることが生きる理由です。あとはそれ以上の前提として、これは生きる理由というか、人生の線分を可能な限り「快楽」のみで満たしたいとも思っています。ただ、このふたつはちょっと繋がりがあります。

 自分が生きる理由と言っても、たとえば自分の中の左脳と右脳とでは意見が違うだろうし、自分の中の腸内細菌叢に聞いてみてもまた違う意見が来るでしょう。国が国民調査をして皆がひとつの意見にならないのと一緒で、自分の体という国家も色々な意見があり、その中に権力や多数決による決定が存在しているのでしょう。

 私としては「死後」についてはある程度それがどんなのか、なんとなくのビジョンはあります。脳科学の本からも、哲学や神秘学の本からも、どちらからもそのイメージの形成には一助となっています。

 だから「死」については結構わかってきたように思えます。ですが、「生」についてはまだわかっていません。その時に、細胞やDNAやタンパク質の発生に関する話をされてもあまり意味はありません。というのは、「生」についてわからないというのは「意識」とか「自我と他者」というのがわからないということだからです。

 私たちは、自我や他者があると思い込んでおり、それを思い込ませる脳細胞がどこにあるかも、わかっています。つまり、その脳細胞を失えば、自我と他者を失います。それをある意味では「死」と呼びます。

 または認知症の重い症状のように、肉体は維持されつつ認識的には「死」に近い状態もありますが、私にとっては肉体の維持に関してはあまり関係ありません。

 ひとまず、その脳細胞によって「自分というものの範囲」が定義され、それによって「自我」が発生し、同時に自我でない部分として「他者」が発生します。

 その間、私は私であり、どちらかといえばその「死」のイメージからしたら、無限の大海原にひとつの突起として島がでてきていて、私とはその島であり、島であって海でないから、海の内部という他者の内部を観測できない状態にあります。他者の内部を推測することはできますが、観測はできない状態です。そのような海から島がでてくるのが「生」であり島が再び沈むことを「死」と捉えています。島がでてきた時には私は海でなくなるし、島が沈んだら、私は再び海になります。

 その時、島がでてくるきっかけとは何か?がわからないわけです。

 科学的には、私の発生原因は両親であって、その両親をさらに遡り、ミトコンドリアイブよりも更に原初のDNA、そこから先はより一層仮説のみになると思いますが、もしかしたら星間分子雲の光化学反応にまで遡ります。

 ただ、私はミトコンドリアイブも星間分子雲の光化学反応によりDNAの基礎の合成ができる瞬間も記憶の中にはありません。もちろん私ではなく死、すなわち「海」のほうは、それを記憶しているかもしれません。

 私が私であること、そこに人は意味を求めてしまう性質というものがあり、カントが「形而上学的欲求」と呼んだものにあたるでしょう。科学が教えてくれることのさらに先に行きたくて、私は私が生きる意味、というものを求め続け、行き止まりの道をひたすらに殴り続けています。でももちろん、それらの行為は私を定義する脳細胞が死滅する時に止まるのでしょう。それまでに、壁が崩れてくれるようなことがあるかどうかです。


 実際のところ、カントのいう「形而上学的欲求」とともに、フロイトの言う「快楽原則」のようなものも同時にあります。ただ、快楽というものが私という「島」が「海」になることを意味するので、島でありながら海になれたら、その欲求は満たされます。私が生きながら、形而上学的欲求や快楽原則の葛藤に苦しみながら、それらを全て消滅させてくれる「海」の状態を求めています。

 例えば、私という島が沈んで、海になることには、統合された意見としての「私」は、別に抵抗はありません。海に沈みたくない私の中の細胞がいて、「生状態での快不快の制限」もそれらの司令塔が司っているので厄介なのですが、海に沈むことでやってくるものは本来快楽なのです。

 結局のところ、「生」あるうちは、私が観測できる範囲が制限されていて、同時に私が観測できる範囲だけが実在にあるために、優先度が生じます。その意味で、死後は自分の観測できる範囲が少なくとも変わると思われるために、生の観測範囲を死後にもちだすことはナンセンスに感じます。

 ちょうどこれは、ハイデガーの「死への存在」のようなものかもしれません。高校倫理をはじめて知った時、最も興味深かったのはこのハイデガーの「死への存在」でした。それ以前から、私にとっての問題の核心はそこにあったからです。

 ただ、そのような考え方は、一般的ではありません。左脳は「死」を想定できないと言われています。そう考えると、この世はなんて「左脳的」なのでしょう。自分の後の世代とか、競争社会で生き残る未来とか、全て「自らの死」を想定していません。自分の死後、自分という観測者がいなくなった世界は観測できるのでしょうか?少なくとも、「自分を通して」は観測できません。

 生の範囲にいる私が世の中を観測しているにすぎないとも言えますが、世の中はそのように「死への存在」よりも「左脳の司令」を優先しているダス・マン社会だというわけです。

 もちろん、死への存在という思考に共鳴して、生や死についてあれこれ考えても、生の視点の範囲ではなかなか結論もなく、カントの哲学書『視霊者の夢』の最後の引用の一文「無意味に難しいことを考えているのをやめて、ただ私たちの幸せのために、庭に行って仕事の続きをしよう」的なフレーズにたどり着くことになる。


 もちろん、外部に頼らずに私が無限に快楽を得られる状態、すなわち「生」と「死」が混ざり合う状態になれれば、その甲斐もある。そうなれば、どんな仕事をしていても、常に快楽を得られるからだ。私の中の魚座は、そういった地点を指差しているように感じることもある。仮に、たどり着けない餌に向かってカゴの中でひたすら走らされているハムスターみたいなものだとしても。


 また同時に、一番の問題は、「生」がコントロールできるかということにもある。私という島が沈んで、2度と浮上しないならそれで良い。しかしまた島として浮上してしまったらどうしよう?「輪廻転生と解脱」の問題だが、実際のところ「生」がわからないというのは、ある種の世代的な経験論じみた論理の飛躍なしに輪廻転生がないと証明することもできないことが原因にある。ある種の量子もつれや量子脳理論みたいなのがあって、時空間を超えて未来や遠い地点に影響をおよぼす部分が私の中にあるなら、私はいつ「死ぬ」のか。



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