12hΨ: ああ、ゴースの赤子が、海に還る
生と死、そういったものの認識とは何か?というのは、ずっと知りたいと思い続けていて興味のあるテーマだ。
youtubeで、おすすめ動画がでてきて、
客寄せ的にというか、サムネやタイトルがちょっとなんらかの商法や宗教みたいな文面で、動画内容がなんの話かわかりづらいんですが、内容的には哲学的な人間の意識についての話です。
あと、昔、この人の本読んだなあ、と。『死の壁』とか読んだの覚えているんですが、まだ大学1年とかの頃だったので、今はもう内容覚えていなかったりして。または、そこで読んだ考え方はほとんど意識というより無意識に入りこんでいるのかも。
またちょうどこの動画の 7:07 - 8:53 くらいの話ででている本は、昔読んだことがあって、
結構読んだ本は売ったりしちゃうときもあるのですが、この『奇跡の脳』の本はずっと売らずに持ち続けていたので、家にまだありました。新しい視点をくれるものは、とにかく人生にとって大事なものです。
この動画と、この本と、両方で言っているのは、「脳が機能しなくなった時、世界と自分が融合してしまう」ということで、すなわち「死ぬ」とはそういうことだと言う話です。
死ぬということが、体や自分が水になってしまう感じ、と表現されています。
脳がそもそも自我・他者・時間・連続性といったものをつくっていて、昨日の自分と今日の自分を同じとみなす連続性すらも脳がつくっているので、そういったものが死ぬことで全てなくなっちゃうってことなんですね。
例えば、恋愛というのは、他者と自我の融合を求める本能において行われていて、誰かが好きとかそういうのは、誰かと自分を融合させたいわけで、それで言えば死ぬということはその恋愛成就を全世界としてしまうわけで、それこそ好きな異性と自分が融合したら恋愛感情的にかなり大きな快楽を得られるわけだから、死ぬことはそれのかなり大きいバージョンなわけですね。
内田樹さんが、なんの本だったか忘れてしまったけど、「死の快楽は、人生で得られる快楽のなかで一番大きなものに違いないので、楽しみ」と言って居たのを、たぶんそれこそ10年以上前の大学生の頃に読んだ本な気がするけど、まだ覚えて居て、やっぱり死にはそういう側面があるのかなと思います。最強の恋愛成就の快楽。
そう、最強の恋愛成就とは死のことです。なんといっても個人なくなりすべてになり、「一なるもの(ト・ヘン)」なってしまうのだから、あなたの片思いが全て両想いになる快感です。
占星術でも死後の世界は海(海王星、魚座、12h)ですし、海王星のマークでもあるギリシア語のΨはおそらく海を表していると思います。pとsを語頭にもつ単語、poseidon(ポセイドン), psari(魚), pontos(海), pseudo(騙し), psyche(魂)、なんかみんな海王星的な単語なんです。
ただギリシア語で「漂う」はnaで、そこから派生したnauが海を意味しますが、それはナウシカ(ギリシア語で海の女王)とか英語のnavigationとかnavyの語源です。
そしてそのnaがラテン語では「生まれる」nascorです。ギリシャ語のgignoscoの欠落かもしれませんが。いずれにしても、naが受動態になりturがつくことでnatur「自然」にもなります。
こういった本などの話があるので、「死後どうなるか」はなんとなくこんな風に思っています。ただ、そのような「脳」ができるとはどういうことか?ということ、つまりむしろ「生まれるとはどういうことか」は、まだここでは解決できていません。
記憶細胞の存在と、身体中の組織や神経を統合し適切に恒常性や均衡性を保つ命令システムの原理が「私」を成立させていますが、それはどのように発生したのでしょうか?
DNAが発生し、そこから細胞が生まれ、細胞が色々な機能を持つようになった、という過程でそれを説明することもできます。
もう2年も前になるようですが、星間分子雲に紫外線を照射することでDNAの種みたいなのが発生するという研究がありました。
星間分子雲なので、星の間に浮かんでいるガスのようなものだそうです。科学的にも星が生命の源であるというのは、占星術にとっては魅力的な話です。
インド哲学的には「私」は「空」です。養老孟司さんの話にもありますが、「自分」というのは、複数の厳密には違う組み合わせの細胞の塊を「自分」だと、時間というものを考えることができる脳細胞が思い込んでいるだけなので、その脳細胞がなくなれば、時間がなくなると同時に「私」もなくなります。バガヴァットギーターや般若心経が言っているようなことは、この現代科学の見地にとても近いものです。
修行をすれば、そういった脳細胞のON/OFFが多少自在になることができて、すなわちインド哲学の文献が言っている「ニルヴァーナ」の状態になれるということで、実際に『奇跡の脳』の著者も、脳卒中の時にそんな状態を体験しているようです。これが昔なら、いわゆる宗教文献等にたびたび見られる「神的体験」をした人のヴィジョンということになるでしょう。
だから、「生」と「死」をシフトできるような存在、体細胞全体というよりも、「自我・他者=時間・記憶・連続性」の感覚を作用する細胞のシフトができる存在においては、「快楽」は無限に約束されていることになります。もちろんある程度コントロールできても「もどってこれない」とかはあるかもしれません。
そこでもやはり今度は「生まれるとは何か?」が気になります。原理を説明することはできますがこれらの脳の専門家たちの意見で言えば、死後も「自我と他者・時間」などはなくなっても、「認識」は存在することになります。その認識が再び「自我と他者・時間」のなかに入るというのは、ここは結局古代ギリシアから続く哲学という問いに戻ることになります。ここにおいて、DNAの発生や生殖細胞的な観点以上の視点が必要な感じなりそうです。「死」よりもむしろ「誕生」が謎だらけなんですね。
1が0になることよりも、0が1になるほうが謎だらけですね。
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