♄▫︎♇☌ MC*ASC : バタフライ効果vs量子論

 アインシュタインが量子論の考え方に反対、と言う言葉は正確でないが、マクロの世界とミクロの世界の間で考え方を分断したくなかったために、そんな感じの統一性と超越論性との間の葛藤みたいなのがあった。

 言語学をやっていると、比較的しっくり来る話だ。例えば英語で皆「不規則変化」を習うけれど、不規則変化にも規則がある。think→thoughtとbring→broughtは同じパターンの変化をしているのは見ればわかるだろう。

 不規則変化のパターンの違いは、外国語からの流入、音韻の最適化の問題、またはbe動詞のように別の動詞がくっついてしまった、等等のいくらでもでてくるが、それらをいちいち定義をすれば、一応「規則的な変化」をしていることになるかもしれない。

 中高ドイツ語の「不規則変化」はまるでサンスクリットの動詞変化のように13類くらいに分かれることができたと思うけれど、もちろんそれにあてはまらないやつもいる。ただそれは、「グリムの法則」のような音韻変化の問題にすぎないものが多い。ただそういうパターンの動詞が1つしかないにしても、「変化の一つ」にしてしまえば、「不規則変化」も「規則変化」になる。

 不規則変化と規則変化の境目とは?それが何か、ミクロの量子の世界とマクロの物理法則の世界との境目とは?の問いに似ているものを感じる時がある。

 不規則変化と規則変化の全てを定義化しかつ、それら全部に共通する法則が見出せれば、アインシュタインも納得の「量子論の物理式」ができあがる。もちろん言語のように簡単にはいかないだろうけど。


 そこで思うけど、バタフライ効果の考え方は、量子論と両立できるのだろうか?ということ。実はこれは、占いをやっていて一番思うことだ。

 なぜなら、占いはバタフライ効果ではなく量子テレポーテーションだからだ。もちろん、バタフライ効果かつ量子テレポーテーションかもしれない。というか、バタフライ効果の範囲をどれくらいとるかみたいなものか。

 もし自分が、あなたの未来は明るいと誰かに言うことで、バタフライ効果または量子テレポーテーション的にそれがやってきてくれるならいい。でも例えば学校が爆発しろと言った時に爆発するバタフライ効果または量子テレポーテーションがあるだろうか。もしそうだとしたら、なぜ中学生の頃の自分は、思念で学校を爆破できなかったのか。

 例えば、過剰な運動をして筋肉痛になることは、そこにいくらかの量子テレポテーションが存在することはもちろん認められうるが、基本的には過剰と運動と筋肉痛という因果のバタフライ効果である。いやどちらかといえば扇風機が作動して風が発生するみたいなモデルのほうが正確か…。

 もちろん、前述のアインシュタインの納得いかなかったことみたいに、マクロコスモスとミクロコスモスの間で物理式が違うので、マクロコスモスにはバタフライ効果・量子テレポテーションレベルの干渉力がないとすることもできる。

 その場合は、私たちのうちどのくらいがミクロコスモスと「実際に関係があるのか」ということにもなってくる。色々な名前の量子とか運動モデルとかを文字で知ることはできるけど、例えば量子は「感じる」ことができるのか?哲学的には、認識できないものは存在していないみたいな議論もあるのだから。

 人間の意識が分子や原子レベルのマクロコスモスでなく、量子テレポーテーションが行われるレベルの大きさの世界の因子によって成り立っている的な、量子脳理論もある。その場合は、そもそも私たちは量子的存在だということになるかもしれない。

 脳波とかそういうものは、もちろん量子のようなプランク定数みたいな世界よりもずっとマクロなものだ。ただ、波なので、それは量子的?そこまで詳しくないので、なんとも言えないが。

 もちろん、ミクロコスモスによってマクロコスモスができているので、水素水であれそうでなくとも水素が含まれていないということがないように、全てのものは原子でできていて、すべての原子が量子できているため、必ず全てのものは量子を含む。残りはその「機能」の問題だ。

 記憶とは何か?特定の組み合わせの細胞によってそれがなされるならば、もちろんの細胞は分子できていて原子でできていて量子でできている。ただ、私たちが何かを想像するとき、思い出すとき、その作用にいつも「量子テレポーテーション」の作用が個人的には想起されるのだ。

 もしこの世に量子テレポーテーション的なものが存在しているとして、またはそれは現状の見方のひとつにすぎず、より全てを包括できる俯瞰的な物理式がやがてできあがるのか。またはそもそも世界はヴァージョンアップを繰り返しているから次々と物理法則を解明する必要がでてくるのか…。全ての本題は、(科学者たちから前時代的だと嫌われがちな)哲学的な問いに帰結する「認識とは何か?」。

 占いも正直、認識の問題だ。または、認識がそもそも「現在、自分では自分の力の及ばない世界だと思っている世界」に力を及ぼすものであるか、という超越論的な問いだ。

 科学論文を読んだりすると、例えば「コーヒーは寿命を2年のばす」「コーヒーは寿命を2年短くする」みたいな感じで、まるでカントの言うアンチノミーみたいな状況にいくらでもなる。情報が多くなった現代では当然のことで、情報は多ければ多いほどアンチノミーを生じさせる。

 ただ、このアンチノミー状況にあった時、カントが言ったのとは別の行動をとらなければならないのかもしれない。

 それは、アンチノミーのどちらかを選択するという原始的な方法である。科学論文のうち、どちらかを採用し、どちらかを否定する。その際の判断基準において、経験論またはもはやソクラテスの言うダイモーンの作用みたいなものから逃れることはないだろう。ただそれは、情報過多の時代の物理法則のようにも思える。


 ホロスコープ上で10室、MCに何も入っていない人もまあまあいるが、入っている人は、仕事になんらかの運命的強制が入ることになる。それは超越論的な意見であり、ソクラテスのダイモーンであり、惑星軌道の量子テレポーテーション的なバタフライ効果であり、ミクロコスモスとマクロコスモスの一致であり、いまはもはや全てが情報的にはアンチノミーだ。10室やMCにある星がトランジットから作用する時、ハードなら「いつ終わるか」を表で見るべきだし、ソフトならそれを楽しめば良い。

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