キロン▫︎ASC : デストルドー

 ドイツのマイスターの修業では、同じ場所にずっと居ることできず、ある程度の期間が過ぎたら再び遍歴の旅をはじめなければならない。中世の騎士物語で騎士が遍歴の旅を続けるのも同じ理由だ。

 当時の旅が命がけの危険な行為だったことは当然だ。travelの語源が「三本のトゲ」を意味する拷問器具の名前であるように。ただ同時に宗教的感性の上では「客をもてなす」文化があるおかげでもあった。

 同じように、キロンはマイスターと騎士の遍歴を後押しする。あなたのトラウマがあって、そしてあなたのトラウマをえぐる人がいる。だから、そんな人とは一緒にいられなくなる。そうやってトラウマがあなたをマイスターまたは立派な騎士になるための遍歴の旅へと後押しし、涙ぐんで見送るのだ。


 神話ではキロン(ケイローン)は己のケンタウロスとしての獣性を克服し偉大な教師となった存在だが、弟子(ヘラクレス)に誤って毒矢で打たれ、不死の体に毒の痛みで苦しみながらも死ねない体になってしまった。そのために、不死を他の者(プロメテウス)に譲り、死んだ。

 あなたのキロンが攻撃されるとき、この神話がよくあてはまる。あなたのトラウマをえぐる相手の善意悪意はどうでもよく、ただ傷つけられ、苦しみ、そして現状を変えて旅立つ。そういう事実だけがある。

 傷つけてくる相手は、「あなたのためを思ってやった」などとふざけたことを言ってくるだろうか?相手が善意であなたを傷つけたなら、それは相手は自らを正当化するためにあなたを使っていたりしているし、自らが正義なのだからあなたへの態度を改めるつもりはないということなので、余計にたちが悪い。

 そのようにして、あなたはそこから旅立つために傷つけられた。傷から解放されるために、傷つけて居る者たちの間から、旅立つ必要がでてくる。そうしてマイスターシャフト、すなわち新しい巡礼の旅が続く。

 デストルドー、「死への衝動」とは、フロイトの言葉で、この言葉自体はとても気に入って居るのだが、フロイトの理論はうまくしっくりこない。どうも愛と死という二元論の倒錯みたいに何もかも説明しようとするアンビバレンスは入り組み方が、しっくりこないのだろうか。

 デストルドーに関しては個人的にはシンプルで「変化欲求」だと思っている。ちょうどこのキロンの役割のように。

 嫌なことが起きたから逃げる。それを動物は繰り返してきた。雷が落ち、大きな音がして、災害が起きたり、ストレスを感じる危険が現れたら、動物は逃げるだろう。立派な生存戦略だ。それがまさに「嫌なことが起きたから逃げる」なのだ。生物としての正しさをなぜ否定するのか。生存戦略が否定されれば、そりゃもう確かに死ぬしかない。

 生物として実におかしな状態である「嫌なことから逃げない」は、まさに、ニーチェが言う僧侶的価値観によるそれまでの価値観の転倒、ルサンチマンによる自然状態を逆転させた歪んだ新宗教の創立だ。

「嫌なことが起きたら逃げる」は「変化欲求」にもなる。状況をゼロにして再創造してくれる「死」への衝動は、まさに「変化欲求」だ。だから、死にたいときは、変化がおきてくれることが一番嬉しい。それまでの世界が限界にきて、新しい巡礼の旅がはじまる。

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000