♄▫︎♇ : 私はA(自我)でありP(他者)である。
♇▫︎♄は冥王星公転周期が248年なので一生に1、2回くらいしかないですが、♄▫︎♇は土星公転周期である29年のうちに2度起こります。今年は土星が水瓶座1-13度であることを考えると、冥王星蠍座1-13度および牡牛座1-13度に♄▫︎♇という計算となるでしょう。
今年、♄▫︎♇を起こしている世代は、すなわち冥王星蠍座1-13度世代:1984-1989年です。または牡牛座1-13度世代もありえますが、その世代の生まれ年は最も近くて1852-1866年か2097年以降です。なんか結構長いですね。覚えている分では、シュタイナーとかはこの19世紀中盤の世代に入ります。
今生きているひとたちでは、1984-1989年世代だけでしょう。最近は不思議と、この自分と同じ世代のひとたちのホロスコープを見ることが多くて、その度に♄▫︎♇について書くことが多く感じます。
♄▫︎♇は、ものすごく純粋なイメージで言えば断捨離とか殻を脱ぎ捨てるとか解脱離脱みたいな感じのイメージで、ネイタル♇とトランジット♄のハウスや状態次第で何でそれが起きるか?は変わりますね。決別、離別、転機、を意味することになりますが、♇蠍座世代なわけなんでそれはすごく精神感情的な影響で、出来事を通して魂の根源とか、生とは何か?とかを根本的に問い直し、それでもってものごとを取捨選択することになるでしょう。
♇と♄の組み合わせは、まさにタロットでいうデスとかソードの10に近いものがあるでしょう。なんらかの現状の死を通して、新しくより軽く生まれ変わることになります。最近は、これらのカードに対して、極めて肯定的な意味が用いられるのが一般化していて、非常に良いことだと思います。善悪は、この世界の先天的な本質ではなく、世界を認識するための個人の認知機能なのですから。
私たちが、物質の性質を理解したり、量子のふるまいを理解したり、星の軌道を理解したり、シンクロニシティを理解したりする前に、自我と他者という構造が存在していて、自我と他者があるから社会や科学や歴史や物質やオカルトが存在しています。そうである以上、自我と他者という構造をなくしてしまっては、社会一般的な意味での学問を含むそれらすべてが存在しなくなります。
自我と他者の相互関係は強固なもので、他者に褒められれば自我が快楽を得て、他者にけなされれば自我がストレスを得ます。快不快は生きる上での最強の基準なので、自我というのはものすごく他者に依存していることになります。
そういう構造からして、インド思想をはじめ、多くの哲学者たちが、その他者と自我の依存関係としての「快不快」のやりとりについて考え、自我が他者に依存せずに快楽を得られる方法を探求してきました。解脱、ニルヴァーナ、または最も古い宗教にとっての天国、とはそういった他者に依存しないで「快楽」を得られる状態のことを言います。
他者というのは、とても広いです。他人でなくても、自分でコントロールできないものすべてのことを言うのでしょう。PCを通してひとりで快楽を得ていても、PCが有限の存在であり、他者のもつ電力やネットワークの技術と調整、鉱石からPCを作り出す技術なんかに依存しているわけなので、自我のみで何かを作り出しているとは言えません。
ただ、例えばインドの聖者とかが、周囲でどんな戦争、疫病、不自由、自らの死につながる出来事、などがあっても常に快楽を得ているような状態にある場合は、それは他者に依存しないで自我で快楽を得られているニルヴァーナ状態だと言えます。
そんな境地が本当に可能なのか?一応そういう宗教の伝記とかでは「私はそれになりました」という報告があるのですが、もちろん人から聞いただけで自分がそうなっていないなら、相変わらず「他者と自我の依存関係」は続いているだけです。
どんな科学でも宗教でもそうですが、自分にそれが起きないのならば、それは偽であり、自分に起きたならば、それは真です。(まあ、記憶や経験に対する相対的で懐疑主義的な立場とか考えだすとまた話がそれますが。)
だから、そういうことがあったし、そういうものだとなっている、と話を聞いているだけで、自分に起きていないならば、そのうちはまだ偽でしかありません。
♄▫︎♇は、個人的にはそんな疑問を私に浮かばせました。自分にはどうしても先天的な性格や他者から受ける快不快の基準があって、その意味で常に快とともにありたいと願って全行動がそれを基準としています。しかし、前述のように快が他者に依存しているとなると、基本的に快は自分がコントロールできないものということになります。
生物学的な電気反応みたいなのをおこして快楽物質を出し続ける装置とか言うのがあったとしても、その装置という他者、および装置を管理し維持する他者が必要になります。それと同じで、気の合う誰かと話したり一緒に居ると楽しいとか言うのも、まさに快楽物質を引き出してくれる他者への依存です。その他者がいてくれる間はいいですが、いなくなったら快楽が止まってしまうわけです。もしも、私が私と対話して、快楽物質がでてくれるというのなら最高です。
逆に、相手から不快をもらうパターンもあるわけで、快と不快が両極の線分であると考えているわけではないですが、不快によって快の生産が止まってしまいます。不快によって快の生産が止まらないのが、前述のインドの聖者の伝記の例です。
その境地は自分の人生の最大の目的地なので、そこに至る方法とそしての伝記が主張するものを、いままでいくらでも実践してきましたが、いまのところその境地には自分は至っていません。
いまだに、他者(人だけではありません。)との相性によって快楽をもらったり不快をもらったりし続け、快楽が生産して幸せになったり生産がストップして鬱になったりの繰り返しで、はあります。他者に依存しない自力での快楽生産の永久機関、一応それは今のところ自分にとって伝説にすぎないですが、昔よりは近づいたと思いたいようなふしもなくはなく。
アキレスと亀のパラドックスでいえば、その二つの間に無限があるのですが、一応現状はアキレスは亀を「追い抜ける」ことになっている、と聞いているということになります。
ところで、私がどこかで快楽物質を生成し、その快楽物質によっては私は快楽を「得る」のですが、それを得ているのは私とは誰なのでしょう?私は私たちの細胞すべてを私と呼ぶならば、私が私で快楽物質を生成していることになります。私というものは、腕を動かそうと思った時に動かしたり、そういう「コントロール下」にある対象を私と呼ぶならば、快楽物質は私の自由に生成できるわけではないので、私ではないことになります。快楽物質という他者を、私が貰い食べていることになります。私の体の中に私がいることになります。なので、その時、私の体は他者です。でも私は一部の繊細な細胞の集合体が意識という形で各種統合的に作用しているのならば、私の体は私だということになります。私の中の、最もコントロールできる部分とはどこで?私はどこにいるのか?『ミリンダ王の問い』みたいですが。ラマナ・マハルシとかの話だと、私は幻であるということになりますが。
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