♃□♂:お憑かれ様
よく、「余計なことに力を使いすぎ」と人に書くアスペクトがあります。木星、火星、土星、ノードあたりが絡んでいる場合、そんなことを良く書きます。
そんなアスペクトが、実際自分に来ると、いやでもやっぱ「余計なことに力を使いすぎ」だったりするかもしれません。疲れるんですね。
疲れるってことは、憑かれるってことです。何に憑かれているかといえば、過去生のカルマとか、すなわち幼少期からきている悪習慣とか。
ものすごいサイコパスでなければ、基本的には人は人の顔色を伺います。可能な限り、誰かから反対はされたくないはずです。HSPだと、もっとそうでしょう。
でももちろん、そういう「共感性」の人ばかりではなく、いやむしろ共感的な人が少数なくらいだからこそ、諍いや恨み、戦いやストレスのリレーが起きるのでしょう。
共感を得ようとするために、努力をすること。例えば、自分の苦手教科を勉強するというのも、実はそうなのでしょう。学校の教科は、ある特定の人の意見です。その意見に賛同するということが、その教科を勉強するということでもあります。
この世には何か確固たる真実と嘘があるというよりも、多数の立場があるだけの存在です。そして、その立場に有利な事実があるだけです。真実と嘘は「立場の位置・方角・それを見る方向」にすぎません。
東にいる人、西にいる人がいて、東の人は自らを善だと思い、西を悪だとする。西の人は自らを善だと思い、東を悪だとする。
逆も可能です。東の人は自らを悪だと思い、西の人を善だとする。過去の思想というテーゼに対するアンチテーゼとして新宗教を創立するルサンチマン。ニーチェが「僧侶的価値観」と呼んだものですね。
そのように、世界は相対的なのですが、自分という地点が必ず存在する以上、そこには「変えられないもの」がどうしても存在してしまいます。自分という地点を善とすれば、特定の反対地点は悪になり、逆に自分という地点を悪だとすれば、反対地点は善になります。夢に向かって努力すると言っても、例えば今の地点は夢を叶えていない悪状態だとして、夢を叶えた地点に善が生まれます。これも、実はちょっと「僧侶的」です。
さても、共感性というものは、ここで自分という変えられない地点があって、その地点と同じ方角にいる相手との共感は「善と善」なので、すんなり行えます。それはこの世で最も理想的な世界です。
しかし、自分の地点と遠いものといることは「善と悪」または「悪と悪」になります。共感性を用いる上で最も問題になるのはこのふたつです。
お互いの地点が遠いと共感性を用いられないために、そもそも共感性を用いないか、または自身が相手の地点に近づくという「悪と悪」状態になることで共感性を発動しようとします。
私たちが「つかれる(憑かれる=疲れる)」のはこの「悪と悪」の状態に自らを変化させて、共感性をがんばって発動させようとする時でしょう。
はじめから同じ地点にいる者同士の共感性には全く疲労が発生しないでしょう。むしろ癒しが発生します。例えば、苦手教科を勉強するというのはこの「悪と悪」のひとつのモデルです。前述のように、その教科を真実だとする立場の意見と相性が悪いのでしょう。自分の地点が遠くにあるのです。人間の怖いところは、そこででもその自分の地点が「悪」だからその教科の立場という「善」へと変容しなければいけない、と地点を変更することです。
もちろん、地点を変更したところで全く問題ないくらいその「地点変更」になんのカルマのない場合もあります。
しかし時にはヘラクレイトスのいう「エートス・アントローポーイ・ダイモーン(ἦθος ἀνθρώπῳ δαίμων):人間にとって先天的性格とは運命の導き手のことである。」というレベルの地点が設定されている場合があります。そういう「エートス=ダイモーン地点」という感じの強烈な地点を、権威主義によって変更されると、ただひたすら「憑かれる」ことになります。
なぜ「憑かれる」のか?人は、カルマの解消を目的としている、という立場からの視点で言えば、そこで「エートス=ダイモーン地点」はカルマの解消のために存在しているのに、それを変更してしまっては、意味がないからです。過去生のカルマは、亡霊や怨念のように、解消されたがります。成仏とは、そういうことです。成仏できないとは、そういうことです。
なので、「憑く」のです。「エートス=ダイモーン」の地点へと戻すために。
私は未熟である、私は思想が間違っている、まだ私の知らない正義を持った人がいる、そうやって宣伝され、そんな私の今の地点は「悪」だから「善」に向かわなければいけないと思い込まされて、その自分が「悪」だとみなした(カルマの視点からすれば、本当は善である)「エートス=ダイモーン」の地点から動こうとすることを、「疲れる」と言うのでしょう。
「余計なことに力をつかいすぎている」状態です。でも厄介なので、「私は悪、向かう先は善」だと、地点の軌道修正は善にしか思えず、力を使っていても自我は満足、カルマを知るインナーチャイルドとかハイヤーセルフ(ダイモーン)とか言われる視点では大打撃なのです。
つかれると言っても、いろいろな種類があって、それを全部まとめてつかれると認識しているだけ、というのはよくわかると思います。運動の疲れ、仕事の疲れ、ストレスからくる疲れ、みんな違います。でもだいたいはきっと、他者の感情、自己肯定感への攻撃とその防衛策としてのルサンチマン、などに憑かれているのでしょう。
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