Orbital Period

 一番の疑問は、「私が私の意見を持っているとは何か?」だった。


 哲学では、主体が対象を認識し、存在が成立する。主体が認識できない対象は、transzedentalつまり超越論的とか言われる。そこでは、主体の観測が世界を作っていて、観測されていないところは存在していないに等しいということもできる。

 アインシュタインが自らの物理学のポリシー的な感じで言っていた「では、君が月を見ていない間、月はこの世に存在しないのか?」的な発言があるが、哲学の文脈の一部では、「そうです」とすら言ってしまうのかもしれない。

 ハイゼンベルクの不確定性定理のような文脈では、まあ電子とかのミクロの世界の話ではあるが、「観測すること」が対象の形に影響を与える。つまり、光を当てないと対象が観測できないのに、光にぶつかるとどこかへ行ってしまうようなものを観測するとき、どうやってそれを観測するか。

 対象の認識という意味では、悟性やら理性やらで主体は対象を認識する。つまりそういった認識が「存在」の本体なので、いわば人間は対象を特定の色眼鏡で見ることしかできない。その意味では、対象を認識する「光をあてる」ときに、光の当て方、受け取り方で対象のあり方、位置などは変わってしまうところは似ている。

 哲学や科学の文脈では基本的に「論理の飛躍」はできない。だから、話はそこまで。けれどもそれが哲学や科学の文脈でなければ「論理の飛躍」はしていいだろう。

 そもそも、なぜ「論理の飛躍」を嫌がるのか?多くはそれは「人間の色眼鏡」でしかないのに。カントが著作の末尾で、非常に理性的に論理的に話題を展開した後に「難しい議論はやめて、今ある農作業を続けようではないか」的なヴォルテールの引用を持ってきたとき、すでに哲学の全ての目的は達成されていて、あとは「論理の飛躍恐怖症」だけが残される世界になってしまった。


 時代は常に「権威主義的」である。いまは「パラダイムシフト」という言葉が、時に何か、前進史観的な意味に使われることがある。ただ、トマス・クーンが「パラダイムシフト」と言った時、きっとその用語の意味にはゆらぎが多く確認されるのだろうけれど、むしろ進化ではなく時代ごとの文化の相対性について言っていたのだろう。

 後ろの方が優れているとか、前のほうが劣っているとか、「論理の飛躍」以外にどうやってそれを証明するというのか?どんな時代でも、その相対的価値は変わらない。

 集団は常に「宗教」を必要としていて、それは同時に「権威主義的」であると宿命づけられているようなところがある。「宗教」は、究極的には、例えば、対象を認識する時、理性や悟性が働いてカテゴライズしたり判断したりする、その理性や悟性といった「判断基準」そのものを宗教と名付けることも可能だし、だからこそ判断基準が皆違って、いさかいや気分が悪くなような事柄が起きる。

「論理の飛躍恐怖症」は、実は自身も論理の飛躍をいっぱい抱えていて、つまり時代ごとの「権威のありか」から与えられた情報を、経験論が無意識レベルにまで浸透したことで、盲目的に信頼している。経験論に基づく権威があれば「論理の飛躍」を認めてしまう。

 本当に、論理の飛躍を認めないならば、私たちは何一つ語れないだろう。私たちは、常に超越論的な世界に存在しているのだから。


 私たちは、子供の頃から数学で自然数の小数点以下ずっと0が続くような線分でつくられた三角形とかについて取り組まされるが、基本的に現実世界でそういう物体は見たことがない。


 すべては、この世は空であり、ニーチェが言うところの「僧侶的価値観」、つまり高貴なものへのルサンチマン、自己肯定感の高いものを否定し、低きに価値があるとする、いわばパラダイムシフトを行い、皆が高貴で自己肯定感に満ち足りた世界でない世界をつくりあげた。「権威」が「自己肯定感」から「自己否定感」へとパラダイムシフトし、否定を善とする世界を作り上げた。善悪とは権威そのものだ。権威の持ち主は誰であっても良い。人間は論理の飛躍の生き物だから、説得力としての経験論や現象が後からついてきてくれる。

 なぜなら認識が世界をつくっているのだから、認識に都合のよう結果が出てくるのは当たり前だ。自己肯定感という認識で世界を見たら、自己肯定できるような現象がついてきて、自己否定感という認識で世界を見れば、自己否定できるような現象がついてくる。


「世界はこうできている」という思い込みが、世界をつくっているのである。ここで「論理の飛躍恐怖症」は、ニーチェが言う「僧侶的価値観」を用いてくる。すなわち、そこには自己肯定感が発生するので、世界は自己肯定感が第一原理でないという「宗教」を持ち出してくる。努力なきものに未来はないと。

 努力は、楽しい努力もあるが、勉強という宗教が蔓延している現代においては、「苦労しなければ、大人になれない」という信仰の意味で、特に「論理の飛躍恐怖症」の間の言葉が用いられることが多い。ただし、そこにも根拠はない。苦労していない人もいるだろう。その者へのルサンチマンが、「苦労をしていないことは悪である」「楽は悪である」という「僧侶的価値観」の逆転的宗教を生み出す。「論理の飛躍恐怖症」とはいわばまさにニーチェのいう「僧侶的価値観」のルサンチマンなのだ。社会がどう、世代がどう、とか言う前に、まずは個々人がルサンチマンでなくむしろ逆の自己肯定性を育てるべきだ。

 人生は、実験室内で論文を書くために集められた被験者ではないから、人生の線分を実験室的にする必要もない。

 ニーチェが持つひとつの結論というのは「この世の全てを解体していったら、何が残るのか?もう自己肯定感しか残らないだろう」というようなことではないかと思う。現代ではそれはニーチェというよりもニーチェに非常に強い影響を受けたアドラー心理学で有名なことかもしれない。

 ユーバーメンシュ、超人というのは、永劫回帰に耐えられる人のことを言うが、自己肯定感がなければ永劫回帰に耐えられない。僧侶的価値観では永劫回帰に耐えられず、もし人間が神経をどんどん伸ばしていくことを目的因子として持っているならば、僧侶的価値観はその神経をどんどん収縮していく方向性にあるからだ。

 カント、ニーチェ、ハイゼンベルク、クーン、ファイヤーアーベント、同じような話を、インドの思想家とかでも十分聞いたことがある。ただ、物言いが違うだけで。文化が相対的なわけだ。

 だからカントの著作と同じ結論の末尾ができる。つまり、難しい話をして「論理の飛躍恐怖症」が自らのルサンチマンを育てるかのような「論理の飛躍」の粗探しをするよりも、外へ出て農業の続きさえしていれば、とりあえず食べ物ができます。

 ルネサンス期の哲学者マルシリオ・フィチーノが言うには、学者というのはメランコリー(サトゥルヌス)とともにあり、メランコリーが最も重要な力を及ぼす仕事だと言いますが、農作業をしていると、太陽光、運動などによるノルアドレナリン、ドーパミン、セトロニンなどの分泌やら、自然由来の腸内細菌の摂取による先祖返り的な腸内環境の整いなどがあるのかわかりませんが、そのうちは論理の飛躍がどうとかいうメランコリーとは無縁がいられるものです。

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