力(8番)への意思
趣味は闘争である、ということはものすごく簡単に実感できる。「卓越性」とか「優劣」に人は動かされていて、そのために趣味があり、美学があり、また知性なんてのもそうだ。
この本だったと思う。巻末に日本の学歴社会、受験戦争のことが書かれており、「趣味とは闘争である」ということの典型例として書かれていた気がする。趣味=卓越性・優越性を感じる装置なので、学歴・偏差値なんかを知性の上下として(実際そうであるかは別として…)卓越性・優越性を感じさせる階級の機能を持つのが学歴や偏差値である。
この本自体は、1993年出版だった気がするんで、いわゆる受験戦争が一番激化していたような無為な時代だったかもしれない。「少子化」した今のほうがましだし、少子化が進行することで、よりましになっていくかもしれない。「高齢化」は問題かもしれないけどね。
私たちが、なぜ「趣味」という闘争を求めるのか、何よりそれにふりまわされてしまうのか、自分でもそれを止める方法はわからない。ある人は自分と違う趣味を持ち、そのたび人間は支配欲と優越性への欲望に無意識内で駆り立てられてしまう。
そして同じ趣味を持った人と出会うことで、支配欲を相互で満たし、その趣味の外にいる第三者に対する優越性を満たすこともできる。
趣味が違う人間は、話が合わないので、「波長が合わない」と言うしかない。何か「合理的な説明」をしたとしても、趣味が違う場合は、納得し合うことはないだろう。それは宗教の論争や戦争が良い例かもしれないが。
実際、この世に究極的な実証性・合理性なんてどこにもない。合理的な説明とは、「自分はこれは合理的だと思っている」という説明にすぎず、実証性とはそれを社会の多数派が行なった場合にすぎない。
だからこそ、色即是空なのである。これは特に、「知性」がこのうちに入りやすい罠であることは特徴的である。古来より仏教やヒンドゥー教が「知性を捨てよ」的な、すなわち知性を獲得しても、すなわちここでいう趣味=闘争の道具に使ってしまうと、前述のような学歴偏差値社会(塾産業が色々煽ったりしているせいもでかいだろうけど)になり、そもそも知性がないような言動をするようになってしまうので、しいていえば「知性に使われる」のではなく「知性」を使用しなければならない。
つまり同時に、般若心経で「知性」とか「無知」はすべて形のないものである、と言い切っているように、知性に依存・執着してはならない。知性への依存・執着こそがブルデューの趣味=闘争を生む。知性に依存・執着する、つまり自分の頭の良さをわかってくれない相手に自分の賢さを伝えようとすること、自分が一生懸命勉強したことを何らかの成果にしたいとか思うこと、または「自分の方が賢い」ということで(この世に合理性・実証性なんてどこにもないのに)自分の宗教(支持する考え方)の優越性を相手にも押し付けようとすること、それを努力しても、どうしてもなぜかわだかまりばかりが残る。なぜなら、それはすべて、そうすべて、中身のないものだから。
一度うまくいっても、執着を捨てられるまで、永遠に影がついてくる感じ。
ところで、そのような「趣味は闘争」であるという作用について、闘争とはある種の感情であるので、場合によっては「アストラル体」という概念にも結びつく。
アストラルという言葉は、ギリシャ語で「星のような」という意味で、エーテル体、アストラル体、メンタル体、と、普通の生物学や物理学では到底使われない用語で人間の「精神作用」を説明する神智学の考え方である。
シュタイナーとかを読んでいるとアタリマエのように出まくる言葉で、シュタイナー研究の高橋巌さんとかは、「最初は、なぜ人間の精神をエーテル、アストラル、メンタルとかで分けなければいけないか、全くわからなかった」と言っていた気がする。何の本で言っていたのか、タイトルは完全に忘れてしまった…でも高橋巌さんとシュタイナーとの出会いを語っていたような話が収録されている本だと思うけど。神秘学入門だったかな。
ともかく、自分も全く同じ意見だった。理性は理性、精神は精神で、ひとつのものだと思っていたからだ。でも実際、生物学的にそんなのありえなくて、人間は脳だけでなく、腸や脳や血、いろいろなところでストレスホルモンとかエンドルフィンだとか、化学物質を交換し合う、だから、私は考えている・感じている、というとき、体内のひとつだけの内臓機関によってそれが行われているということはない。
だから人間の精神だって複合要素であって、複数の別の周波数が一度に発生する音楽のようなものだと。
アストラル体というのはシュタイナーとか神智学でいう「人間の感情」を意味する。上述の本で、ある意味はじめてアストラル体ってそういうことか、と個人的にふに落ちた。ただ、この本、すごく読みづらい。人によるのかもしれないけど。あと、本がデカくて1ページに文字が多すぎるので、寝っ転がって読みにくいのも、かなり致命的。新書とかで出れば読みやすいのだけど…。あと、ブックデザインが新興宗教の本っぽいが、そこまででもない。
まあともかく、感情は前述のようにエンドルフィンとかアドレナリンとかの作用と言えるけど、より古くからある考え方を参考にするならば、それは「アストラル体=カルマ」ということになる。またアストラル「星のような」という言葉も、占星術と関連がある。そもそも占星術の考え方は、古代のプラトン的思想やゲーテの『ファウスト』のはじまりの詩のように、星の位置が人間の感情(または、現象まで星が支配するかは人によって意見が様々)に影響を及ぼすという考え方である。
これは、医療関係の書籍の校正のアルバイトをしている自分にとっては何度読み返したかわからない話だが、太陽光の刺激によってセロトニン、メラトニン等が分泌され、メンタルや睡眠の質の向上につながるだとか、月の満ち欠けが体内の血流の強弱に影響し興奮状態になったりするような、そういう話を別の太陽系の星にまで適応させたようなものである。
感情が現象を作るかどうかで言えば、確かに興奮した感情で人は戦いを起こしやすく、また前述のように趣味=闘争=感情なので、感情は当然、現象に影響を与えるだろう。ただ、感情を抑えることもできるので、そうできるくらいの感情なら、現象に現れない。
それと別の要素として、星が現象に作用するとしたら、「量子テレポーテーション」みたいな作用を、ミクロコスモスだけでなくマクロコスモスまで適応できる場合である。多世界解釈の世界観みたいにもなれる。
これらは物理学の世界だけど、量子力学に関しては、大学や研究の領域になると意味について考えることはナンセンスであり、「とにかく計算しろ」と、技術や社会的共同幻想への貢献みたいな感じのことにしか方向性を向けられないという話が非常に興味深いところであった。(興味深かった、ってのは便利な言葉だなあ)
このページで見たインタビューだったと思う。実際、どの分野にせよ、自分が所属していた学会のジャンルにせよ、学者が論文でかくのは「タテマエ」であり、大学の知性とはつまりタテマエなのだ。
学者からその人の学んだこと、すなわち「本当の真実」「本当の学問」を知りたかったら、オフレコの場面、学会の飲み会とか個人的に友達になって話をするとかするしかないと、言語学の先生が言っていた。まさにその通りだと思う。ただ、もちろん人によっては、学術的な「タテマエ」しか持っていない人もいる。
星の位置が現象に作用する、よりもより広くとって個人的には「認識が現象に作用する」マクロコスモスでの「量子テレポーテーション」については個人的に納得している思想として、今は存在している。これもまた、個人の思想であり、趣味=闘争なのだろうか?
カントが著作で、難しい哲学論理を展開した結語として「難しい話はやめて、私たちは私たちの仕事をしよう、農具を持って作業に行こうではないか」的な言葉は、いつまでも心に響く。
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