シャンティプリヤー
ギリシャ語のφαρμακος:pharmakosは現代の英語等でいう薬屋:pharmacyの語源になっている。その意味では、旧約聖書の出エジプト記:Exodus 22:18には
「Pharmakosを生かしておくな」という記述があり、そのpharmakosは「薬屋」ではなく「witch、魔女、魔法使い」とか訳される。こういう訳が、今みたいにネットで簡単に検索したりギリシャ語を勉強したりできない時代に魔女狩りや格差社会的マインドコントロールを引き起こした過去の遺産の「トンデモ訳」みたいなものの典型である。(いや、それは今も全く変わらないか…!?)
トンデモ訳といっても、もちろん常に変化し変わりゆく言語というもののなかで、pharmakosの当時のギリシャ語の意味をわからなければならない。新約聖書がギリシャ語で書かれたのもありギリシャ語がある種の原典のひとつとはいえ、もとはヘブライ語の訳なので、ここはkesephというヘブライ語のギリシャ語訳だということなどなど、色々留意すべきと言えることはあるだろう。またそれこそ、「生かしておく」peripoieseteのほうも同様である。
とはいえもちろん。学説とかそういうものは、「留意すべきことがあるだろう」の集大成で、そこから先に何か結論がでるわけでもない。結論がでても、また別の仮説で覆されたり、またむしろ昔の説に戻ったり、永遠にとどまることを知らない。
このギリシャ語のセプトゥアギンタ訳がでた頃にすでに「魔女狩りの精神」みたいなのがあったとも言える。「魔女、魔法使い、悪魔、呪術師」こういった言葉は、訳した人が当時流行っていた「悪の代名詞」を適宜あてはめて訳している翻訳が多い。
例えば、witchという言葉だって、本当はwiseとかwittみたいな賢い、知的、みたいな意味の言葉なのだ。
「薬屋を殺せ!」とも訳せることpharmakosという言葉に関しては
主にpharの部分の「運ぶ、担う」から構成されていることがわかる。、ラテン語のfero(運ぶ)、ギリシャ語のφέρω(phero:運ぶ)、またはサンスクリットの√bhṛ(担う・運ぶ)などと同じ語源であると。
wiktionaryは後ろのmakosのところには何も書いてないので、phar「運ぶ」にmaやkoは適当な分詞化だと言う感じなのだろう。pharmakosとは「運び屋」になる。薬の材料などを色々運んでいるイメージだろうか。
それにしてもこの「運ぶ」という音、実に「神聖」になったり「邪悪」になったり、そういうイメージを周囲からころころ与えられてしまっているようだ。というのも、例えばラテン語のルシファー:Luciferだってそうだ。Lux(光)+fer(運ぶ)、すなわち、光をもたらすものなのだが、今のイメージは堕天使、悪魔。これは人々と金星というものの歴史だとも言える。
同じように、「運び屋」である薬、すなわちpharmacyもまた、そうやって「奇跡の医者」だったり「悪知恵の魔女」だったりしてしまう。これはグリム童話に出てくる「魔女」がいいイメージだったり悪いイメージだったりするのと同じだろう。
また、pharは「運ぶ」でいいとして、うしろのmakというギリシャの言葉からは色々想像できる単語がでてくる。前述のように分詞化ともとっていいが、makとは重要単語がいっぱいある音価ではないか。例えば、magos, mache, makros, mega これらはおおよそ同じ語源であり、ラテン語のmagusやmagnus, maximus、サンスクリットのmaha、はたまた英語のmake, may, magicやドイツ語のmachen, Macht, mögenにまで繋がる「つくる」「ひろがる」「力」そういったものだ。
magicの語源はこのイランの「マゴス族」の儀式だともいう。ただその前からもともとこの言葉「マゴス」自体が「魔法」を意味する。鶏が先か卵が先かではなく、その両方に共通する本質的元型、アーキタイプ、共通項こそが重要である。
英語のmakeやmayの語源は魔法なのである。そして魔法とは「力」を意味する。これは言葉で一方的に解説するようなことじゃない。対話を通して理解してもらったほうがいい。
人間の意志がものをつくっているというのは、ある種のヴァーチャルリアリティ的な哲学のひとつの答えでもあるが、引き寄せの法則とかそういう話が好きな人にもちょっとわかってもらえるだろう。
人はなぜ「maha, mega」つまりものごとに「広がり」を見せることができるのか。人間の意志がこの世に反映することこそ「make」であって、人間の意志がこの世に反映するとはまさに太古から人が魔法「magic」と呼んできたものだ。
それにしても、pharmakosのページを見ていたら面白いものを見つけてしまった。古いミュケーナイのギリシャ文字。いわゆるギリシャ文字よりずっと「象形文字」的である。ギリシャ文字ひとつひとつに力を感じるのは、より「象形文字的」であるからに他ならない。
この文字を見ていると、強いノスタルジアにかられる。その時想起する自分の中のギリシャの風景は、すなわち「この文字とともにある時代の風景」はどうしても、歴史家たちの言うギリシャの感じと違うような思えてしまう。
アサシンクリードオデッセイでも、ミュケーナイというロケーションはただの野盗の巣窟だったが、とても惹かれるものがあった。西洋古典学の授業でしょっちゅう耳にしていた名前のせいもあるだろうけど…。
しかし「薬屋を殺せ!」というのも、今…なんというか、ウイルスについて学者がうかつなことを言うと逮捕されたり、炎上したりとか。特定の意見の論文が撤回されたり、なんかそんな時代だなあ、と思うことも、なんて。
0コメント