mehr licht oder mehr nicht
人との会話の中で、昔のものを思い出すことがあります。
このMVがアップされて、いっつもこの映像見てたしこの曲を聴きながら生活してた頃を思い出します。っていうその時がもう2016で8年前…っていうのが。あんまり今まで、「もうそんなに昔なの?」って思っても認めたくなくてそんなこと思っていないと自己欺瞞してきた。でももうそんなに昔なんだ。
以外と時代が進化していないのか?前進史観においては失われた時代なのか?そんな感覚も老いに対する認めたくない心なのかもしれない。
私たちは何も持たずに生まれて、途中でたくさんのものを得るが、死ぬときにもまた何も持たずに死んでいく。
そんな時には生命とは何か?何か目的があるのか?と感じる。私たちには、生殖する本能があり、その結果、複数の生命と生命による創作物がこの世に存在している。ああ、その生存戦略はわかる。子を残すという優先度の高い本能を生命にプログラムすることで、自動で生態系を作成する。そして遺伝子はコピーの際に稀にバグを起こすことで同じものだけでなくさまざまな生態系が生まれる。
この世に先天的に環境条件というものがあって、この条件下ではそのような構造のプログラムが今の2024年の人類として生き延びた。私もその一部であるが、では私が私を体験しているとは何か?意識として、さまざまな痛覚や快楽の信号を毎日受け取っている。受け取る信号の中でも、前述の生殖の欲望など、生物的本能の部分は特にわかりやすい。
しかしなぜそこに私と言う「受け取り手」がいるのか?がいつも疑問になる。脳の信号と受容体が、プログラムされた生物的本能に干渉されながら「私」を形成しているのかもしれない。しかしこう言った構造は、何か目的みたいなのがあるのか?
人間の生殖する本能について考えると、そこに生態系の生存戦略という構造が見えてくる。そしてその「生態系の生存戦略」は何のために存在している(ように思える)のか?が気になる。そしてそれ以上に、その生存戦略が最優先事項だとしたら、なぜ私は私の意識を体験しているのか?が気になる…。
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