アイだけが残った
人生にかかるお金の計算をしていた。
今の所の生きているのにかかっているお金と、歳をとってからのそれの予想。計算機とかもつかってちまちま。なんかそれが楽しいというだけ。
まあでも、未来何があるかわからないという前提で、未来がとりあえず今の世界の延長線上にあると考えた時の、予想でしかないと言えばそう。
予想外の悪いことも、予想外のいいこともまずは換算しない。何か目的や人生設計、予算案みたいなのがあって計算しているわけではなく、不確定性のある未来に対する安心感や心の満足のために行なっているに近い計算。
学生の進路指導みたいなののたびに(そういう時期なので、最近多い)、自分も「あの時この道を選んでいたらどうなっていたかな?」とかって思う。歴史や倫理が好きだったので、教育学部の地歴公民に行ってたらどうだったかな…とか。
ただ、本当に好きな分野は高校教科のなかにはなかった。西洋古典学とか、ドイツ語とかロシア語とか…実はその辺が自分でもよくわかんないけど才能があったみたいなんだけど、教えてくれる人はいないし、自分でもやってみるまでわかるわけがない。
ラテン語に対する憧れは学生時代にもなぜかあった。この間、仕事でキリスト教系の学校の先生と話していて、「19世紀ヨーロッパみたいに、高校でラテン語ギリシア語の先生とかなれたら、たぶんなってただろうなあ」とか話したら、「キリスト教系学校だと、現代でもラテン語の高校の先生ありますよ」と言われた。今更なところもあって、詳しくは調べていないが、そんな世界もあったのかなあ。
ドイツ語の高校の教職というのも一応あったな。東京の学校でのみ求人数件いままで見たことある程度だけど。
ただ、この人生は、哲学を学ぶ期間がとても長かったという特徴がある。古典も文化人類学も生物学も物理学も数学も哲学だったと思う。バラモン教やヒンドゥー教的には一番いいことだ。おかげで、ぶっちゃけ悟ることができた人生だったかもしれない。
ただ「悟り」とは、世界がどうやってできているか、なんとなく把握できたということであって、聖者の伝記のように「感情や感覚(神経伝達物質やホルモンバランス)を自由にコントロールできる」とか「何か物理法則を無視した奇跡を起こせる」みたいなことにはなっているわけではない。「死後の世界」に関しては、まだ予想・仮説レベルのまま。
感情や欲望や痛覚や快楽に翻弄されながら、驚かされたら普通にびびるし、どうでもいいはずのことに怒りも感じたり、悲しくもなるし、どうしても欲しいものもあるし、おいしいものを食べるとおいしい。ただ、世界が何でできているか、人生をどう生きるべきか、なんとなく理解した気分でいる。
しかしそれを、人に伝える手段がない…ってフェルマーの最終定理かよ。
自分にあと残されているのは、「愛」と「死」だけだ。エロスとタナトスというやつ。
「アイだけが残った」ってのは、確か楳図かずお「わたしは真悟」のセリフだったと思う。
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