快楽原則
やばいくらい今なんか気持ちが悪いです。酷い車酔いみたいに。
それで時々思いますが、脳内快楽物質が私たちの本体でしかないですね。状況が人の幸不幸を決めるみたいに言いますが、状況から快楽物質が放出されるかどうかが幸不幸を決めています。
他の人にとっての幸福な状況に自分が遭遇したとして、快楽物質が出なければ幸福にはなりませんね。逆に、他の人にとっての不幸な状況に自分が遭遇したとして、快楽物質が出ていたら私にとっては幸福ですね。
快楽物質が出る基準が厳重に決められていて、それが私たちの運命を決めます。ずっと快楽物質を出していればずっと幸福ですが、状況に対する対策が取れず、長生きができません。長生きするために私たちは不幸になります。
ただ、運動しすぎが体に悪く、運動しなさすぎが体に悪いみたいに、快楽物質ありすぎも、なさすぎも、長生きできないみたいです。
なぜ、私たちは長生きをしなければならないのか?それはよくわかりません。生命は、感情移入で成り立っています。私の体を大事に思うからこそ、私は生命活動を維持できます。それは映画の主人公に対する感情移入です。
精神は肉体につながっています。精神を痛めつければ、肉体に病気というあざができます。微小な統計力学とマクロ物理学がつながっているからです。
どんな原理も、わからない人には、わからないで良い。それがこの世の真実です。
ただ、そこで、わかってもらおうと、怒りが、情念が、発生すること、それがこの世の最大の神秘で、最大の謎です。
怒りは、自我への防衛策です。自身の健康を損ねないために、対象を避けようとする力です。全ては、健康になろうとする意思にすぎないかもしれません。
誰かにわかってもらおうとして、でもそれが徒労で、結果的に去るしかできなくて、誰かと疎遠になる。そこには、何か巡り巡って、自分の健康に寄与するようなものが、あるのかもしれません。
だからこそ、怒りや、不寛容が、そういう雑念が生じても、自然消失する精神、それを悟りと人々は呼んできましたが、それは健康的でもないのかもしれません。
その意味で、私が最も不思議なのは、いつも自分と正反対のものと出会うことです。それと融合した思想もありましたが、その意味で、この世は昔からずっと驚くほど不快です。幼いものに、幼さを教えることはできません。
しかし、自分が快楽物質を得られる出会いも色々ありました。どちらかといえば、私と同じ者よりも、私と正反対の者と出会うことは多いです。たまたま出会うと、自分が最も嫌なものを、最も大事にしている相手だったりして、それは世の中の普通なのかもしれませんが。
そのようなストレスから出た結論が、世界シミュレーション仮説でした。私たちは、この世の原則として、この世は残酷であるという宗教原理を、一体誰に教わったのでしょう?
その世界から出たくない人は、そのようにさせておけばいい。私がその世界に居ないことをおかしいと言う人には、耳を傾ける必要がない。まずい料理を頼みたい人はそうすれば良いが、自分までそうする必要がない。
そこは選べるわけです。なぜなら、私たちの本体は、脳内快楽物質にすぎないからです。
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