Life is Beatabeatrix
常に見ているわけではないけど、たまに凄く共感するテーマがくる。特に教育について…でも教育とかについて考えると、自分の下の代の生命…それは自分だと言えるのか?それとも他人と言うべきなのか?人間は個体で完結した生命なのか?それとも、人間という種全体がひとつの生命であって、個別の人間は人間という種全体を益することを目的とする存在なのか?とか考え出したりもしてしまう。
なんにせよ、自分自身教育を受けてきて、また同時に、人より多く学ぶ機会を与えられてきて、その上での印象として、現代日本の教育で平均的に遭遇する可能性の高いものを評価するならば…例えば、自分には、子供を育てるレベルのお金も収入もないが、もしも何か凄い、広範囲な選択肢を選べるレベルのお金がいっぱいあって、子供がもしも居たら、普通の義務教育には、絶対に入れないだろう。シュタイナー学校で幼小中までせめて過ごせれば、それはそれで通わせられるが、もしそういった選択肢が不可能ならば、学校には行かせないで、外部の自由学校的なものを探すのがベストだと感じる。現在の学校教育は「受けないほうがマシ」だと感じる。
学校教育で最も役に立つのは家庭科・生物あたりだろう。人間として生まれた以上まずは知らなければならないことを知り、その後は興味にまかせる。農業、食料生産、経済、家事、医学、薬学、栄養学、政治とは何か、それこそが最も役に立つ、基礎的な過程科目であるはずだ。
「役に立たないモノ」を頭に詰め込むことを競わせて、どんな人間ができるのか?PCでいえば、余計なファイルとアプリでパンクして容量が残されて居ないHDDを量産するプログラムに何の意味があるのか?意味があるとしたら、「何もない人間は、支配しやすいから」「色々知っていると、買ってくれなくなるものがあるから」とかくらいの都合だろう。それがそのようなパンクしたHDDを量産する教育を続ける理由だと気付ければそれで十分でもある。
不登校をしている子供達には、色々な理由があると思う。何か暴れん坊な気質でというよりも、空気的不快感・ジオパシックストレス、こんなこと勉強して何の意味があるの?世の中にはもっと面白そうなことが、いっぱいあるのに、という考えでそう至るならば…その考えは実際に正しい。
事実に蓋をして、嘘をつきづづけているのは大人であって、子供だけがその嘘に気づいて、大人がその嘘に気づいていないことすら多い。「つべこべ言わずに、行きなさい」は「日本の教育という教祖様を信じなさい」と言っているのと、同じ。
カルトとカルトと言えるならまだマシで、本当にやばいのは、常識にカルトがあること。
人は常に隣の芝が青く、それが触ると毒になる芝であっても青いわけなので、義務教育を受けなかった子供は、「義務教育を受けて居たら、もっと立派になれただろうか?」とか「みんなと同じだったら、もっと良い人生だっただろうか?」と思うかもしれない。両方を知っている人間からすれば、どちらが一目瞭然だが、片方しか知らない場合、もう片方がどれほど醜くても、憧れになり得る。美醜の両方を経験しないと、美がわからないということはある。
その意味では、ショック療法的に、汚いものを見るまで一回きり、みたいにほんの少しだけ、体験するのも良いかもしれないが…。基本は、美しい人間が作られることが、最も尊いことである。
ブリーチのセリフ。でもこの世の本質を突いていると思う。憧れを理解に変えるのが知識かもしれない。でも憧れの原動力も人間にとって必要だったりもする。
ただ、社会のあり方とか、支配に対する反骨精神とか、そういうものを考えるのは、シュタイナーとかは認知症予防にもなるみたいなことも言っていたけど、善悪二元論だ。この世の真の目的は脱二元論で、社会とか生命循環とか競争とか、それらはその気づきに至るための材料に過ぎない。
宇宙論における人間原理の世界のもとで、私と言う、生命のなかのさらに限定された一個体の視点認識の時間には限界があるので、いつか、そういったものよりもメタ的な視点を得なければならない。
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