エスター
自分が昔見た、このドイツ映画について、人と話す機会があった。当時はまだ自分は、ドイツ語なんて全く知らなくて、しいていえばエヴァの映画の曲名(Komm süsser tod)くらいしか知らなかったけれど。
東ドイツのことで言えば、大学時代に受けていた、ドイツ語会話の授業の先生が、東ドイツ出身だった。そこでは、オスタルギーという言葉を教わった。東(オスト)ドイツへのノスタルジー。それは、西ドイツ寄りの意見でも、東ドイツ寄りの意見でもなかったと思う。
どちらの方が良い、という考え方は何らかの思惑がその背後にいることが多い。世界の中心原理は経済であり、経済は大衆の心理学が行動原理となり、人が経済とともにある限り、善悪二元論を利用した何らかの思惑とともにあることから逃れることは難しい。
大学時代は、ナチス・ドイツの研究が専門の先生からも、人生観においてとても影響を受けた。なぜか1対1の授業を受けられて、とても良い体験だったと思う。その先生の授業は、ナチス・ドイツのことというよりも、歴史の基本的な考え方を教わったと言って良い。
すなわち、歴史には「政治経済に都合の良い歴史」と「本当の歴史」とがある。それを一番実感したのは、歴史について議論されるような学会に関わった体験だろう。「こういう人たちが、こういう基準で歴史を認定しているんだな」というのを知った。現在の政治経済、国際関係、学会内派閥、権力闘争、などを学問は容易に越えていけないことがわかる。
歴史だけでなく、例えば、現代の教育のなかで、国の教育方針やカリキュラムに忠実な平均的な義務教育や高校の教育は正直「悪いもの」だが、政治経済や国際関係において都合が良いので「悪いもの」のままにしてあるのだとは思う。意図的でなくとも、結果的にそうなっている。
とはいえ、それは複雑に重なって身動きがとれなくなった教育の問題というよりも、個々人の人生観の問題でもある。というのも、誰かが学校教育に学生が苦しめられているとして、それを解決する手段があるとしたら、人と縁をつくることになる。すなわち「学校行かなくても、なんとかなるよ」と言ってくれる人の縁を。その際の将来の不安は、経済やメディアに作られたものにすぎないと言ってくれる人の縁を。そう考えると、この世は縁が全てを決めてしまう。
何か劣悪な場が存在しているとして、若い頃は人はよく「悪を善に変えよう」と思ってしまうかもしれない。そこでうまくいく性格の人と、そうでない性格の人がいるかもしれない。ただ時に人はそこに限界を感じて、悪を善へとすることができなかった次の段階では「住み分けをしたい」と考えるようになる。
結局、この世に「政治経済に都合の良い歴史」と「本当の歴史」があるとしても、「本当の歴史」なんてものは、その歴史を観測する人間の数だけ存在する。
だからこそ、「歴史にもしもはない」なんていう恐ろしい言葉こそが、政治経済に都合の良い嘘に他ならない。歴史に「もしも」があったら、人々に共通の国際関係意識を保てなくて、人々の行動をコントロールできないのだ。
観測が存在を定義する、というモデルは歴史にも通用するわけだが、ひとによっては、現実の常識的法則の外にあるこの概念は、理解が難しいとも言う。確かにそもそも、常識的には量子力学のサイズの物理法則は分子レベルではあまり通用しなくなる。
トラックが壁をすり抜ける確率は物理学的には存在すると言われても、実際に見たことはない。
でも今まで、子供の頃に考えていた、将来の自分や、社会とはどういうものか、この年齢にはこんな感じ、みたいな幼少期の未来予想には、当たっているものがほとんどない。すなわち、その当たっていない将来図の数だけ、「実際に見たことがない」ものばかりの人生だったと思う。
ただ、人生の特定の段階からは人は「引き寄せの法則」が強くなると思う。思っていたことが起こるようになると、ある意味では、もう未知は、今まで見たことがないことは減っていくことになるだろうけど。
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