観音 ἤ 観自在
観測が存在を生成する。量子力学の話題ではあるが、拡大解釈してマクロ世界についてもそれを仮定すると、それはシンクロニシティになる。
ユングの著書の自然現象と心の構造は、ユングがシンクロニシティについて定義した著作で、事例としては占星術において結婚している人々や恋人同士が持っているアスペクト(太陽合月)を統計的に収集してランダムよりも実際結婚している人に見られるアスペクトを例に確率的な偏りがあることを示したほか、や「偶然の一致」に関する逸話を多く紹介している。
認識が物質を定義する。それ自体は、遥か古代から言われてきたことで、場合によってはそれはカントが再定義したものかもしれないが、それは言い方の問題にすぎない。
日本に浸透している仏教でもそれを出発点としているが、別に法事の際にカントやプラトンに通じる哲学議論がなされるわけではなく、いわば現代で言えば外国語がわからないで洋楽を聞く感じと同じように、お経という古代の言語や別の古代の言語に翻訳された歌が歌われる。
観音菩薩という言葉は、今の日本でもすごくアタリマエのように通じる。しかし拡大解釈すれば、凄く意味深な言葉なのだ。観音菩薩は観自在菩薩とも言われる。これ自体は、サンスクリットの翻訳の問題で、アヴァローキテーシュヴァーラとサンスクリットで観音のことを言うけれど、それは
「音(スヴァラ)を見通す(アヴァローキタ)ことができる人」
という意味にも
「見通すこと(アヴァローキタ)において自由自在(イーシュヴァラ)である人」
という意味にも取れるから観音とも観自在とも呼ばれる。
菩薩はボディサットヴァで「ありのままを知っている人」という意味になれる。
どっちにしても、音も光も、本来はいわば関数の一部みたいな周波数であり、その波を視覚で感知されて光、聴覚で感知されて音となる。音も光も見通すことができれば、像でも音でもなくその波自体を感知できる。
ある種のヘテロ的な構造(1)(2)があれば、存在は存在たり得る、量子もつれも、粒子Aと粒子Bが必要で、粒子Aへの観測が粒子Bを定義する。粒子Aなしに粒子Bの量子もつれが存在せず、また逆も然り。
存在もまた、光と網膜の関係のように、周波数の表現と、認知器官が必要だ。網膜なしに光が存在できず、光なしに網膜が存在できない。周波数と認知器官ではサイズは違うが、認知期間もある意味周波数の積分的存在であり、同じサイズの部分もあるわけで。
ユングはシンクロニシティでこの世界を支配する確率は数学的まっさらな感じではなく偏りがあるというのが結論で、一応まあ確率の偏りというのも確率の式に偏りの式を加えればできるわけなので、数学が崩壊しているわけでもない。粒子AとBの関係でもある認識というものが偏りの式であっても良い。実際に、収縮とは確率の偏りなのだし。
今、個人的に一番興味深い本の著作として、カルロ・ロヴェッリの世界は関係でできているという本をちらっと立ち読みした。ナーガールジュナについて書いてあったところが印象的だったし、大変興味深い。ただハードカバーだったので、「時間は存在しない」もそうですが、1000円くらいの新書で出て欲しい。興味がある本を読んでると精神状態がむちゃくちゃ安定するので病まないために本が必須なのですが、(執筆の仕事もらえているような状況になった時に限って)図書館が凄く今遠いので、安い本を買っている状態。
周囲ではもっと普通の意味でシンクロニシティみたいなことが起きやすくなっていて、シンクロニシティについて思うことが多かったです。ATLASという曲を聞いていたら、その瞬間にたまたま検索していた情報に関する記事に、ATLASという機械について書いてあったりとか。多いです。
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