周波数格差
2年以上テレビを見ていない。部屋にはPCとゲーム用のモニターだけがある。民放はもう10年以上前から見ていない。東京の時は、部屋にテレビがあったので、夜のNHK教育でやっているような番組(猫歩き、ときどきファーム等)と将棋NHK杯くらいは見てたけど、そもそもテレビないので今はそれもなくなったくらいに。最近は報道機関を介したネットニュースもくだらなくなって見なくなった。(国内外の新しい研究なんかを翻訳し紹介してくれるようなニュースサイトは見るけど。)今の時代は、大手報道機関のニュース全体がウェルテル効果を持っている。
民放の音や周波数などを長く享受していると、目、耳、思考はその世界に最適化されるだろう。そうなってしまった人とは会話が成立しない。受容メディアが違いすぎて、関心を持つべきこと、実際に起きていること、思考が全く違うので、言語内で指し示す対象や区別すべき対象があまりにも違い、共通の言語が成立しない。
これはいわば、周波数格差以外の何物でもない。現代は個人が受信する情報や、その情報を受け取る際の音の周波数・騒がしさの違いなんかも本当に大きい。今の時代、正しく思考できる人は、本当に正しく思考できている。そんな人には、同じ思考を持ち、言葉が通じる。同胞と出会えた的な喜びを感じることができる。
民放と学校の勉強には、凄く大きな共通点がある。「情報の洪水」で頭をパンクさせるという共通点だ。色々と想像したり考えたりする隙間を与えない洪水で、思考を奪う。仕事で学校に居ると特に感じる。学生以上に、先生こそが、いくらかの人は特にその教育の被害者なのだと。
この教育課程は、人々に対して、ものを買うときに色々考えないで売る側の宣伝に操られるように買う人たちになってほしいからそうしているのか、それとも元来、工場で国が豊かになるかつての時代につくられた工場労働者養成課程であるために人間機械を作る方法しか考えられないだけなのか。または、国を無思考にして衰退させたいための海外からの干渉なのか。
あるいはもっと、広く俯瞰した視点で考えてしまうとしたら、この世界でそのような人間たちの狂気的な現状、そしてまたそのような人間たちと関わる私たちのカルマとは何か?
民放の周波数のひとたちは、彼らで彼らの世界を楽しみ、そうでない人は、そうでない世界を楽しめるようになれば、本当は最高だ。共同体の棲み分けができれば、本当に最高だ。私たちにも、実はそんな可能性があるのかもしれない。
年収90万円でハッピーライフという本があった。立ち読みでちょっとだけ読んだだけなので、全貌わかってるわけじゃないし、全部実践するというより、いくつか取り入れられたらというくらい。
前述のように、今は人の間の思考の格差があまりにもはっきりしすぎている。だから例えば、根本原則が一緒で気が合う者同士で、そんな感じの生活とか、ヒントにできないか、とか。
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