onoma topou

 子供の頃から、自分の名前がちょっと気に入らなかったので、違う読み方をいつも探していた。幸いにも、漢字にはいろんな読み方がある。

 始皇帝が字を統一した話は高校世界史でも習う有名な話だし、ソシュール言語学でいうシニフィアンとシニフィエなんかも、要は「もの」の呼び方が凄く色々あって、すごくアタリマエなこととして「もの」と「言葉」は別の存在だということ。

 すなわち、自分の名前を親が決めた呼び方をしてもいいし、漢字の音読み訓読み、なんならそれらを超えたキラキラネームみたいな世界に入ってもいいし、現代中国語の読み方もある(中国語の授業に参加すると、中国語の発音で出席の名前とかは呼ばれる)。仮に漢字だけでなく、ローマ字化しても、国によってローマ字の読み方の規則すら違う。

 例えば、ヨハネが英語ではジョンになり、ドイツ語ではヨハンになり、フランス語ではジャンになり、スペイン語ではフアンになり…。

 大学の先生でジュンイチという名前の先生がいたけど、イタリアに行くといつもJunichiはユニキと呼ばれるとか言っていたのを思い出す。ドイツ語ならユニッヒだしフランス語ならジュニシとかかな?どれも間違いではない。その人の名前が持っている多様性としての真実だから。


 文字はそれ自体に字源があるので、日本人は漢字が入って来たとき、ひとつの文字を色々な呼び方をした。当て字だったり、意味だったりで、毎回漢字を使い分けた。その結果、音読み、訓読み、名前における特別な読み、みたいに色々な読み方ができた。

 例えば、因果はサンスクリットでhetuphala(ヘートゥパラ=根っこと果実)なので、意味を重視し、音は無視して翻訳されたが、舎利子はサンスクリットでsariputra(シャーリプトラ:鳥の子)という意味だが、シャーリを舎利で音を重視し、意味は無視して翻訳された。


 でも字の意味さえあれば、その漢字を何と呼ぶか、音は違っても、意味は一緒。意味は固定されているけど、音は好きに選べる。音もまた、字とは違った意味を持ち、その名前の印象を決めるから、最もしっくりくる音を選べばいいだけ。

 


 この世で最も有名な祈りの言葉のひとつであろう、キリスト教の主の祈りの一節。


γιασθήτω τὸ ὄνομά σου

hagiastheto to onoma sou

ハギアステートー・ト・オノマ・スー

「あなたの名前が、神聖なものでありますように」

ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

Flags Flax Fodder & Frigg

0コメント

  • 1000 / 1000