mens sana aut corpus sanum
東京に1年行ってない。東京を離れてから、2020とそれ以前と比べると、収入はあまり変わっていない。占いの機会は、ありがたいことに、結構増えた。
でもって、医療費がたぶん…2019は5~6万かかってたのが、今年度は数千円しかかかってないと思う。まあ、2019までが異常だったのかもしれない。
東京にいると、健康になれなかったので、人生レベルでの転地療法をした。でも、なんというか、コロナ騒ぎの影響で「そんなに病院にいかなくていい」という感じにもなったかもしれない。ひとつの宗教から目が覚めたような気分だ。
今まで、不調になって、何日かたって、でも不調が治らなくて、病院にいかないと治らないのでは、と思って、さらに精神的ストレスで不調になって、病院に行く。そこで、誤診があったりして、何軒か別のところにいって、そのくらいに治ったりする。ここ数年はわけのわからない体調がおおすぎた。が、2020年はそれが1回だけ。それも病院にも特にいかなかった。別にいかなくてもよかったわけだ。
東京で、体調を治すには、どうすれば良いのだろう?いや、この体調の「ギア」みたいなのは、いつからはじまったのだろう?もともとは、医学というものが、自分にとって手の届かない存在だったのが、2020年には、仕事の関係で、はじめて医療とか、そういうところとかかわったり、医学に関する論文も仕事の関係でいくつか読んだりもすることになった。
そこではじめて「病気とは何か?」が見えた。学会とかには、全く別のジャンルのもので、かつて関わったことがあったので、どういう場所なのかは知っていた。
でもやっぱり、「正体を知る」ことである種妄想は消えていく。疾病恐怖という妄想が、いままで強く、そこには未知、または自分には知り得ないものがあるという妄想が強すぎたのだろう。医学は、自分に理解できるようなものではないから、誰かに頼るしかないと。技術的なことは、もちろん今だってそうだ。ただ考え方とか、ちょっとした内部構造とかが見えたことが、まさに医学の知識が「疾病恐怖」に対する特効薬だったと思う。医学の知識がない、というより、自分には理解できないと思い込んでいたから「恐怖」になってしまう。
2013くらいだったかな、肺がんで亡くなった、友人、というのか、ネットでの交流やハガキのやりとりとかはしていた人がいた。自分よりも、3つか4つくらい年上だったけど、彼は20代で亡くなった。なので彼の年齢は、数年前にとっくにすぎてしまった。
死について考えることは、生きている間の最優先事項のように自分は思っていて、できれば死について解明し何らかの結論を出したい。観測に基づく統計学的な結論でなくてもいい。
東京を思い出すには、音楽とかPVとかが、一番ささる。音や匂いといったもののノスタルジーは、視覚よりもずっと強烈な気がするのです。
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